Youは何しに南極へ? もう1つの南極物語


47.南極における人文社会科学の可能性

シドニー帰国直前に、しらせを望むカフェで昼食を摂る。一面オレンジだった船体の下部がねずみ色になっているのが、氷海との格闘を物語る。

 

 1956年にスタートして以来、南極観測は長い間自然科学の牙城だった。もちろんその中で南極の自然環境そのものを研究対象としない医学的研究も行われきた。また、人文社会科学とも言える臨床心理的研究も行われてきたが、生理状態に大きく依存する気分の研究が主だった。状況が変わったのは、つい2年前である。58次には法学者の柴田さんが同行者として参加した。柴田さんは国際法の専門家で、南極条約を専門テーマの一つとしてきた。その意味では、僕は南極観測に直接参加する二番目の人文社会系研究者だということになる。

 

 南極に研究対象があるのかと考えれば、自然を研究対象とする一定数の人間がいる限り、そこに人間が存在し、社会が存在する。つまり、人文社会科学の研究対象が存在することになる。問題はそこに研究上の価値があるかという点だ。私の研究テーマについては、すでにブログ39回で紹介した。南極地域には致命的なリスクがある。ブリザードもクレバスもハザードではあっても、人間がいなければリスクは発生しないから、リスクという概念自体、人間生活の挑戦的な営みの結果生じたとも言える。

 

 生き死には人にとって重大な事態だが、知識やスキルによってそれを制御することもできる。重大な事態が発生するリスクがあればあるほど知識やスキルの持つ意味は大きくなる。その意味で、南極観測はリスクに関する認知を研究する重要なフィールドだということができる。

 

 20~50日の船旅で行き来する南極は、日常とはかなり異なる環境である。1年間外部からの物理的援助を受けられない越冬隊ではなおさらである。特殊な環境での適応(あるいは不適応)は心理学的に見れば興味深いテーマである。これまで越冬(とその間に経験する極夜:太陽の出ない時期)の影響についての臨床的研究は海外も含めて数多く行われてきた。また最近ではむしろそのポジティブな側面、つまり過酷な体験を通した達成感や心理的な成長も研究テーマとなっている。大学で隣に研究室を構えているのが臨床心理の研究者で、ことあるごとに「南極にいいテーマがあるよ」と誘っている。

 

 南極での生活に満足したか?と聞かれると、正直なところ100%肯定できない。考え方にかなりバラエティーがある人々が限られたリソースの中で、しかも一定期間逃げることができずに生活しているのだから、当然のことだろう。満足できなかったということはそこに社会生活上の課題があるのだから、それ自体、社会心理学や社会学の研究テーマがごろごろしていることになる。閉じられた人間集団の中で人間関係にどんな課題が表れ、それがどう乗り越えられていくのだろうか。これは参与観察となる南極観測では実施が難しいテーマではあるけれど、興味あるテーマと言える。互いに見ず知らずの大人が出会ってから10ヶ月後には命も預ける可能性のある関係になるという点が社会学的にも興味深いだろう。

 

 暗黙の規範がどう発生するかというテーマも興味深い。現在の南極観測では、隊や昭和基地の運営に対して、隊次の自由度が大きい。その中で明示的なあるいは暗黙の規範が生まれるが、その背後にどのような思考があるかは倫理学的、あるいは法哲学的にみて興味深いのではないだろうか。たとえば、昭和基地にはブリザードに対する外出注意あるいは外出禁止という規則が発令される。これは基準となる風速なり視程が明記されている。その意味では明示的ルールなのだが、夏期間においては、不慣れな夏隊員が大勢いるという理由もあって、「お試し」的に、予めその風速・視程に達する以前に注意令が発令される。「お試し」で規則を実行することは明示化されていない暗黙の規範である。これを実施する隊長クラスなら、その暗黙の規範を了解しているかもしれない。一方で初めての隊員であれば、その運用をおかしいと思う可能性はあり(実際私はそう思ったし、越冬経験のある隊員から、「村越さんはどう思うのか?」と問われたこともある)、そうだとすれば、「この規則はかなりの程度隊長の裁量で恣意的に運用される規則なのだ」という暗黙の規範を推測してしまうかもしれない。こうした場面で運用者や被運用者がどう考えたかは、規範とその遵守を考えるよいフィールドになりえる。

 

 もちろん認知心理学的にも興味深い。隊員たちは、致死的でありながら日本では経験することがないため、名前すら知らないリスクに南極で直面することになる。半年という短い時間でそのリスクの性質や対応法を学習しなければならない。これは認知心理学に格好の研究フィールドを提供する。今回の安全学習では、海氷上の氷山のそばにできるウィンドスクープの写真を隊長が提示した。これはかなり分かりやすかった。ところが、その結果、基地の回りにウィンドスクープができるという認識がかなり抑制されてしまった。ウィンドスクープは本来は、強風によって、地面上の全ての突起物の風上側にできる可能性があるのだが、氷山のそばにできた写真を見ることで、「ウィンドスクープは氷山のそばにできる」という誤った一般化が行われたことになる。限られた事例による学習での誤った一般化は、認知心理学ではポピュラーなトピックである。

 

 南極観測はリスク管理という点でも曲がり角に来ていることは多くの関係者が認識を共有しているし、それに対して安全教育の改善の動きは私の研究テーマとは無関係に進められていた。リスクは心理的テーマとしては南極で扱うべきであり、扱い易いテーマの一つだろう。南極という自然環境と密接に関係しており、しかも他の地域にはない多くのリスクがある。しかも、それに対する人間の心理状態は、心理状態の中でも比較的ドライな領域であり、参与観察がしやすいというメリットがあったと思う(たとえば、心理的なストレスとその適応というテーマであれば、隊員からのデータ収集の際にそのストレスの内容が明らかになってしまうが、その中には同じ隊員である研究者にはあかしにくい人間関係上のストレスも多く含まれていると推測される)。こうしたトレンドに合致した幸運もあって、2019年に出発する第61次南極地域観測で、私が提案した萌芽研究「リスク対応の実践知の把握に基づくフィールド安全教育プログラムの開発」が採択された。これは日本の南極観測で初めて実施される正式な人文社会科学研究テーマとなる。

 

 私のささやかな挑戦が、人文社会科学の研究者がこれまでとは異なる視点で南極と南極観測を眺め、それによって日本の南極観測がより豊かなものになるマイルストーンになることを期待して、ひとまずこのブログの幕を閉じたい。

父、望のこと

 私が大学に赴任した時、15歳ほど上の教授から、過分な期待の言葉を贈られた。父が第一次南極観測隊に参加したことを知っての発言だったが、なぜそのように言われるのか全く理解できなかった。父は確かに南極に何度も行っているが、仕事だから当然のことで、電力会社の職員が深い渓谷に何度もでかけたり、山岳ガイドが毎日のように山に登るのと一緒だとしか思っていなかったからだ。

 2001年のNHK番組プロジェクトXを見て、自分より20歳くらい人たちのこうした反応の理由に合点がいった。第一次南極観測は国家プロジェクトというよりは朝日新聞が国民を巻き込んで生み出した国民的プロジェクトであり、彼らはこのプロジェクトになけなしのお小遣いを寄附した人々だったからだ。「南極観測はすごい!」彼らはおそらく小学生だからこその素直さで、それを頭にすり込んだのだろう。彼の言葉とプロジェクトXのおかげで、「南極観測は凄いことなのだ」ということが30にしてようやく理解できた。

 南極観測派遣が関係者の間で周知された時期がいつかはよく分からないが、父は比較的早い時期からそれに参加を希望していたようだ。満州で生まれ育ち、海軍兵学校に入学したものの、実戦に出る前に戦争は終わってしまった。理系の能力が高かった父だが、家庭の事情や社会的事情で大学には進学できず、給与を支給される気象大学校で学ぶことにした。卒業後は、昭和1954年まで富士山測候所、その後大島測候所で勤務していた。残された日記からは「くすぶり感」が行間から読み取れる。南極観測に参加することで、「一花咲かせたい」くらいの思いもあったのかもしれない。だが、当初は彼の思惑通りには事は運ばなかったようだ。

 大島では職場上司に対する不満が強かったが、富士山測候所の勤務は性にあっていたようだ。当時の測候所長の名前はよく話題に上った(余談だが、静岡に赴任して最初に県庁の委員会の依頼が来たとき、同じ委員にその所長さんの娘さんがいた。世間は狭い!)。南極観測への参加が決まった出発半年前の初夏には夕方思いついて、富士登山に行った。終電で河口湖まで行き、そのまま河口湖登山道を夜通し歩き、朝8時に山頂について、測候所員と半荘(麻雀)して帰ってきている。昭和30年の年末には、余暇に三島測候所を訪れている。その際、山頂で強力(ごうりき)の急病が発生した際には、自発的に申し出て、「零下20度余の極寒と風速30mに及ぶ暴風とをつき、結氷による登山路の危険を冒し登頂」(中央気象台長和達清夫による表彰状文面)している。満州生まれで寒さには強く、南極にもっとも条件の近い富士山頂での勤務は、彼が観測隊に選ばれた重要な要素だろうが、西堀さんが彼を選んだ最後の決め手は実はこの出来事だったのではないかと密かに思っている。

 福島隊員の遭難があった(第42回「夢」参照)4次隊の留守中に私が生まれ、その際「みんなみの氷と海の間からまだ見ぬ真の行く末思う」という短歌を残したと伝えられている(万葉集を卒論に選んだ妻のゴーストだったかも)。その後、9,10,12次には夏隊で参加している。またその過程で、気象庁を退職し、新設された極地研究所へと移っている。南極観測が華々しいキャリアになったかどうかは分からないが、少なくとも父には合っていたのだろう。

 第15次隊で隊長を務めた際には、自衛官が氷山のクレバスに転落し死亡する事故も発生している。この時には彼自身のミスであわや大惨事というヒヤリハットも経験している。極地研勤務の晩年の1984年に観測隊支援室長を経験した時には、現在に通じる事故事例集の発行を主導している。その序文は今でも事故事例集の「初版の序」として残されているが、そこにこんなフレーズがある。「事故は尽きない。しかし限りなく零に近づけたい。」それから35年経った今でも、観測隊はその答えを模索している。彼が58年前に息子の行く末をどのように思い浮かべたとしても、その模索に参画することになることは予想だにしなかったことだろう。

 

写真は第一次南極地域観測隊の「宗谷」出港風景

45.帰ってきて思うこと

 1996年の2月に、スキーオリエンテーリングの世界選手権のためにノルウェーに行かなければならなかった。その年は日本も寒い冬で、すでに11月後半にはしもやけになっていた僕は、ノルウェーにいったらいったいどんなひどいことになるのか、想像さえできなかった。実際にはどうだったか?しもやけが治って帰ってきた。

 よく考えてみれば、不思議なことでもなんでもない。外気はマイナス20度になることもあるが、外にでる時は厚着をするし、手袋もする。それにスポーツする時以外に長い時間外に出ることはない。室内は、概ね20度以上に保たれ、寒いと感じることはない。その教訓から、しもやけは室温が低いためになるのだということに気づき、それから冬にしもやけに悩まされることはかなり少なくなった。

 この経験は今回も繰り返された。さすがに標高1000mを超えるボツヌーテンのキャンプで、ワープロを打つのはさすがにキツかった。でも、昭和基地でも、しらせでも寒いと感じたことはほとんどなかった。「まじかよ」と思っていた第二夏宿の外でのトイレも、熱くなった頭を冷やすちょうどよい時間とさえ思えた。だいたい、僕らがいた12月末から1月の南極は夏なのだ。

 翻って日本は寒い。南極では感じることができなかった「薄ら寒さ」という形容が一番しっくりくる。手袋をせずに外を歩いていると、しもやけの前駆症状であるかゆみを感じる。湯船に浸かりたいと思う。昭和基地やしらせではなかった欲求だ。越冬隊員に「日本に帰ったらしたいことは何?」と聞くと、「温泉に入る」が圧倒的に多かった。風呂好きでもない僕は、聞いた時には共感しなかったが、日本に帰ってくると、風呂に入りたいという感覚は理解できる。南極ではジョギングして汗をかいても、着乾かしして、そのまま寝てしまうことも何度もあった。湿度が低いから不快にも思わないのだ。そうやって考えると、日本の方が南極よりも過酷な環境かもしれない。

 もちろん、たいていのことは南極の方が遙かに過酷だ。日本では、手元にないものがあってもお金があれば買える。車がスムースに動き、快適だ(南極では舗装がされておらず整地も十分でないので、車に乗るのは苦行に近い)。静かな音のしない環境で眠れる(昭和基地は静かだったがしらせの50日間、常に船の動力音が聞こえ、数時間に一回地下の船倉のドアを開けて見回りする音が聞こえる)。食器を下膳するときに、バケツで下洗いしなくてよい(昭和でもしらせでも水が貴重なので、まず自分でためおかれているバケツの水で洗う)。日本にいたら当たり前のことが、インフラや環境を整える努力によって得られていることに、南極から帰ってきて改めて気づく。

これはしらせの船内だが、自分の食器はこうやってバケツで下洗いをしてから下膳する。

44. コーイチロ

コーイチローと土井隊長(左)
コーイチローと土井隊長(左)

 わが部屋には猫がいっぴきいた。オスの三毛猫である。劣性遺伝である三毛は通常メスにしか生まれない。オスの三毛猫は一種の染色体異常であり、生まれる確率は相当低い。だから、幸運の運び主だか航海の守り神にされているようで、第一次南極地域観測隊に、贈られたエピソードが残っている。この猫は観測隊隊長の永田武にちなんで「タケシ」と名づけられ、越冬後は一番懐いた通信隊員の作間敏夫さんに引き取られ、天寿を全うした。わが部屋の猫もこの故事に倣って壮行会の際に贈られたもので、当然名前はコーイチローという(隊長土井浩一郎)。

 

 あまり可愛くない顔だと思っていたけど、単純接触効果からか、次第にその顔が可愛く思えてきた。何より癒される。ぬいぐるみ一匹いるだけで部屋の空気が和む。まだ隊員たちとの打ち解けた関係のできていなかった往路では、ヒヤリングルームに持ち込んで相手をリラックスさせるのにも使った。ぬいぐるみ侮り難し。

 

 もし仮に自分が観測隊の隊長になるのなら、いろんな動物のぬいぐるみを隊員の数だけ買って、一人ひとりの隊員に好きなぬいぐるみを渡す。「ふーん、君は蛇のぬいぐるみがいいの。面白い趣味だね」とか、「そうだよ、やっぱり三毛猫だよ。タケシの逸話知っている?」とか、隊員との話題づくりにも活躍するだろう。もちろん、隊員が可愛がってくれれば、隊員の癒しと精神的健康にも大いに

貢献するはずだ。100匹買っても、せいぜい30万円くらいだろう。個人の幸福のもとに隊を成功させるなら、安い投資だ。

 

 「最後に公室のゴミ箱に捨てられてたら心が痛みますね」と、小心者(本人談)の同室者が気にする。シドニーが近づくと、誰もが荷づくりで要らないものを片付けだす。バフィンブーツが捨ててあったりする。誰からもらったにせよ、3ヶ月も一緒に暮らしたらぬいぐるみでも愛着がわくものだ。そうなるはずのぬいぐるみが捨てられているということは、隊への満足度が低いことの証でもある。ゴミ箱に捨てられているぬいぐるみの数は、隊員の満足度を評価するアンケートよりもはるかによい指標になる。どのみち、アンケートの評価が悪ければ、心が痛むのだ。

 

 わが部屋のコーイチローは、南極の思い出を背負って、日本に帰る。楽しい思い出ばかりではないが、それ自体に人文社会科学の研究者である僕が研究を続ける理由もある。コーイチローはその航海の守り神ともなるだろう。

43. シドニー入港

シドニー入港時の艦橋の様子。赤丸が舵と出力の表示ボード
シドニー入港時の艦橋の様子。赤丸が舵と出力の表示ボード

 シドニー入港の朝(20日)、6時に艦橋に上がる。東の空には夜が明ける兆しが見えるが、西の空はまだ真っ暗だった。船首が向いているその方向に灯台の灯りが見える。その回りには街の灯りらしきものも見える。4ヶ月間見ることのな

かった風景だ。

 

 7:30に再び艦橋に上ると、20名以上の士官、科員が集まって入港ブリーフィングをしていた。副(艦)長の司会で、気象士の気象概況に始まり、各部署が、注意すべき事項について発表している。地図で見ると、シドニー港は入江の奥にある。もちろんパイロットも乗ってくるが、乗員にとっても緊張する時間なのだろう。既に夜は明けていた。まだ遠くに霞んでいるが、断崖の上に緑が広がっている。4ヶ月間の南極行動では決してみることのない色合いだ。1年3ヶ月の間、 南極にいた越冬隊員はどんな気分でそれを見ているのだろう?想像することしかできないその気分を味わってみたい衝動に駆られる。

 

 9時過ぎにパイロットが乗船してきた、艦橋はより慌しくなる。どんなに大き な船でも、舵と出力という二つ要素(実際にはしらせには左右の出力があるので、3つ)でしか操作することができない。その点からすれば艦橋には一人いれば十分船は動く。だが、電子海図やレーダーを見て、周囲の状況を刻々と伝える乗員、あるいは、(電子海図で自艦の位置も航路予定も分かるにも関わらず)予定航路を書き込んだ海図上で、自艦の位置の航路からのずれを報告し、変針点への到着を予告する士官、水深を定期的に読み上げる科員がいる。桟橋に近づいて操舵を担当する艦長や士官が艦橋の桟橋側に動くと、舵と出力状態を表示したボードを持ち歩いて、現在の艦の状況がよく分かるように提示する乗員がいる(写真。ボードは赤丸の中)。時間的な制約の厳しい中で、大きなダメージをもたらしかねない意思決定の現場での情報共有とリスクマネジメントのシステムとして興味深い。認知心理学者としては、情報過多になりかねない状況の中で、それらを総合して操艦の意思決定をする艦長の頭の中を覗いてみたい。

 

 自分の中で、ハーバーブリッジを背景にしたオペラハウスの眺めに興じる観光客の視点と、研究の延長線上で艦橋を眺める始点がめまぐるしく交錯する1時間を経て、しらせは無事にウールームールー(シドニーの軍用の岸壁)に到着した。到着時間は予定どおり10:00。流石。

42. 夢

第一次越冬隊参加時の父、望
第一次越冬隊参加時の父、望

 夢を見た。人懐っこい笑顔の男性がこちらに向かって歩いてくる。手を差し伸べている。防寒具に身を固めているから、きっと南極関係者の誰かなのだろう。でもこの顔は関わった58次隊、59次隊のどちらにもいない。頭の中の記憶を探る。そのとき、彼はいった。「望(ボー)ちゃん、久しぶり!よく来てくれたね。」その瞬間、吉田栄夫さんの文章中にあった写真の人物に思い至った。福島紳。南極観測隊唯一の犠牲者。19601010日、ブリザードの中で作業のために外に出たときの悲劇だった。彼を偲ぶ「福島ケルン」が昭和基地の海岸、しらせからの輸送路の上陸地点に建てられている。

 

 眼前の彼の姿はだんだん小さくなり、やがて、僕の足元に吸い寄せられていくように見えた。同時に、「そろそろ行きましょうか」という声が聞こえた。一緒に福島ケルンにお参りに来た隊員の声だった。どうやら福島ケルンでの黙祷中に白昼夢を見ていたようだ。この場所は、リスクについて考えるために南極に来た僕にとっては、一種の聖地である。

 

 彼の遺体は9次隊のときに発見され、遭難時に一緒に居た吉田さんによって運ばれ、荼毘に付されて、遺骨の一部はケルンにも納められている。奇しくも、彼が遭難した4次隊のメンバーが多かったという。その中の一人に父望もいた。父が生きて僕の南極行きを見送ってくれたら、その送り言葉の中にはひょっとすると「福島さんによろしくな」というのがあったかもしれない。

41. 読書

 フランスの世界選手権への挑戦で、初めて大きな挫折を味わった後に臨んだ1989年スウェーデンの世界選手権、余暇時間の使い方にも気を遣った。興奮しすぎず退屈しすぎない、適度な娯楽が精神面の調整には欠かせない。音楽のほかに選んだのが数冊の本。その中に大江健三郎の「キルプの軍団」があった。ノーベル賞作家大江の作品では障害のある長男を扱ったものは有名だが、キルプの軍団は、部活でオリエンテーリングをしている次男をモチーフにした高校生が主人公だ。

 

 ストーリーはあらかた忘れたが、題名はディッケンズの小説に登場する悪役のキルプに因んでいる。主人公Oちゃんは自分を取り巻く悪意を乗り越えて世界との関係を新たにする。そんな主人公の姿が、世界との関係を新たに構築することで競技の世界で一歩先に進もうする自分に重なった。中学校のときに、「村越は感想文を書くのが苦手だな」と言われて以来、物語を読むことに苦手意識を持っていた自分にとって、それは新鮮な体験だった。

 

 それから30年が経ち、世界選手権への挑戦と同じように、自分の目標のためだけに自由に裁量できる時間の中で、普段、なかなか読む時間のない、買い置きした新書の類を読んでみた。また、しらせ内のレンタルDVDで、映画もみた。それらの主題は、不思議なほどに現在の自分にシンクロした。

 

①国谷裕子(2017)キャスターという仕事 岩波新書

 国谷裕子はNHKの驚異の長寿ニュース番組、クローズアップ現代のメインキャスターであった。番組タイトルからも分かるように、番組の毎回のテーマは、現代を特徴づけ、その動向を理解するのに欠かせないテーマばかりだった。その最後に番組が選んだテーマが、管理の強化や同調圧力の中でも、声を上げ、未来を変えていこうと考えている若者たちだった。一方で、国谷は、管理の強化や生きにくさの根底にある社会の不寛容さにつながるコンプライアンス、リスク管理の強化を、クローズアップ現代が助長してきたのではないかという思いを忘れない。

 

 本来チャレンジがリスクを生み出し、そのチャレンジが許容できないリスクをもたらす不幸を避けるためにリスクマネジメントがある。だが、未然にリスクを管理するリスクマネジメントはチャレンジ精神とは反対の方向を向きやすい。少なくとも組織でリスクマネジメントに従事しているとそう感じる。今のような社会では、組織的なリスクマネジメントは不可欠だろう。だから、個人的なリスクマネジメントの対案を提示しないと、個人に対しても、それが適切でないのに組織的なリスクマネジメントの論理が押し付けられ、本来許された挑戦の機会が損なわれてしまう。それは自然の中でのリスクマネジメントの実践知を研究テーマとしている自分の根底を流れる問題意識だが、同時に南極地域観測隊に関わるべき理由でもある。

 

②亀田達也(2017)モラルの起源:実験社会科学からの問い 岩波書店

 日本では学問分野は大雑把に自然科学、社会科学、人文科学に大別される。いわゆる理系である自然科学に対して社会科学や人文科学は「文系」と総称される。その「文系」に対して、2015年に廃止統合などの厳しい通達が文部科学大臣よりなされた。それに対して社会心理学を研究する筆者は、自然科学と同じ土俵にたって「文系」の知の意義を提起したいという目的意識から研究を進め、また

この本を執筆した。

 

 特に興味深かったのは、モラル、すなわち価値を分配する方法の心理的基盤とギャンブルの選択の関係だった。価値分配は、自分がどのような階層に位置づくか分からない状況ではギャンブルと同様、リスクの問題でもある。著者は実験に基づき、この両者に強い関係が見られると主張する。価値の分配とギャンブルを問わず、最低の分け前を最大化するロールズ主義的傾向が見られるというのだ。 最低を最大とは、所得の分配で言えば、最低保障をできるだけ高くするような所得分配を選好することであり、ギャンブルであれば最低の配当を可能な限り高くするオッズを選好することだ。

 

 彼が提示するデータを見ると、僕は別の印象を抱く。社会的分配にはロールズ主義のマキシミン(最小限を最大限に)選択する被験者の40%程度がギャンブルの文脈(個人的なリスクの分配)には功利主義的な総額最大化を目指す点である。つまり、彼らは社会としては弱者への最低保障をできるだけ高く(これが、マキシミン)守る必要があると考えているが、個人の挑戦においては失敗しても全体の利益が最大化するやり方を許容していることになる。価値の配分は一種のリスク(配分方法が悪ければ分け前に預かれない)なので、集団全体としては最大リスクを最低にする規範が必要だと思っている人でも、個人の挑戦に限ればそうでなくてもよいと考えている人が少なくないことになる。

 

 社会としては不幸を最小限にするリスクマネジメントが必要ではあっても、個人にとっては別のリスクマネジメントの選択肢も必要になるということでもある。そういう選択肢はかなりの程度許容されている。それを実装することは、個人の挑戦機会を許容することにつながり、国谷が指摘するような非寛容さに対しての緩衝材ともなるのではないだろうか。

 

 現代の諸問題に対してマニュアル的な答えを出すのではなく、(社会科学の方法とテーマ設定で原理的なレベルでの解を与える可能性を探るという姿勢にも共感を持った。アウトドアでのリスクに対して、深い考えもなく投げかけられる「あぶないから/迷惑をかけるからだめ」でもなく「自己責任だから勝手にすれば」のいずれでもない、原理的な解があるとすれば、それこそがリスクマネジメントの研究を通して見つけ出したいものでもある。

 

③天地明察(原作:沖方丁)(しらせレンタルDVD

 しらせの45日間の航海に終わりが見えなかった2月の半ば、艦内レンタルのDVDを何度か利用して映画を観た。普段映画を見ない僕は、映画を選ぶこと自体難しかったので、まずは原作を読んで面白いと思った映画を見ることにした。最初に選んだのが「天地明察」だった。

 

 江戸時代の改暦という地味なテーマを扱った同名の歴史小説「天地明察」を映画化したものだ。碁打ちながら理系の才能に恵まれ、碁などを通して幕府や宮廷の要人に知己を持つ若き主人公安井算哲の改暦に至る奮闘を描く物語である。重要な転機でことごとく老齢の要人にその才能を愛でられ、改暦という国家プロジェクトを任されていく。

 

 若いころなら安井算哲に自分を重ねただろうが、今なら老齢の要人にシンパシーを感じる。自分たちが退いた後に社会を支える人材を見出し、育てることへの義務感、彼らが作るであろう社会への希望。しらせには今、10人を越える若い優秀な研究者の卵が乗っている。彼らがいつかはこんな夢のあるプロジェクトを成し遂げるのだろうと思うと、退屈なしらせの旅もまた輝いたものに思えた。

 

④「駆け込み女と駆け出し男」(原作:井上ひさし)(しらせレンタルDVD

 女性から離縁を持ち出せなかった江戸時代に、駆け込み寺という制度があった。この映画は駆け込み寺こと東慶寺に駆け込んだ女性と、その女性たちを本格的に寺に入るまであずかる宿屋の主人の甥っ子の戯作・医術修行中の男を主人公

とする井上ひさしの時代小説である。

 

 鉄作りの女主人ごじょは、女放蕩の亭主に愛想を尽かし、駆け込みを決意する。駆け込み寺での薬草の採取を通してごじょと主人公は心を通わせるようになった。医術の修行のために長崎にいくつもりの主人公は、2年の年季明けにはあなたを長崎に連れていきたいとごじょに話すが、ごじょは満更でもない態度を取る。

 

 2年の年季が明けて、晴れて離婚成立(夫側が離縁状を強制的に用意させられる)の席で、放蕩亭主は離縁状を渡した上で、真顔で「戻ってくれ。いや戻ってくれなくてもいい、一ヶ月でいいからうちで鉄を作ってくれ。俺はお前がいなくなってから精進した。だが、お前の作る鉄には適わない」と懇願する。亭主の放蕩中、手続きに専心してきたごじょには無視できない言葉だ。慌てた主人公、親にお菓子を暗にねだる子どもみたいに長崎までの道中の絵図をごじょに見せびらかす。そこで毅然としたごじょの一言「長崎へは行きません」いい台詞だ。

 

 主人公、ショックを受けながらも、未練がましくごじょに迫ると、こう詰問される。「長崎に何をしにいらっしゃいますか?」しどろもどろに「医者の修 行」、「戯作の修行」と答えと、ごじょにこう言い放たれる。「医術も戯作も、あなたはすでに立派な一人前です。長崎なんかに行っているときではありません。今こそそれを江戸で使うべきときなのです。」そして、最後に「江戸にならお供させていただきます。」と三つ指をつく。

 

 初参加の観測隊、しかも同行者の身分だしなあ・・・「ちょっと修行中」くらいのつもりでここに来ていた自分へガツンと来るごじょの言葉だった。

40. トレーニング環境を求めて

しらせ艦内でフォト形式ロゲイニング開催!こーいちろーも写真チェック。
しらせ艦内でフォト形式ロゲイニング開催!こーいちろーも写真チェック。

 艦上で運動ができる場所は基本的には上部甲板と保養室という名のジムだが、氷海を離れて「不摂生を正す」自衛官が増えてきた。一方で、悪天候になると上部甲板は使用できなかったり、積雪・強風のため甲板の一部で利用が制限されるという事態が生じる。そのため、ジム利用者が急増する。もともと広くない上に有酸素系はランニングマシンが1台、自転車が2台あるに過ぎない。待っている人がいる場合には30分までしか許されていないので、長い時間のトレーニングも難しい。週1回は90分のトレーニングをするつもりだったが、どうするかな・・・。

 

第三船倉でのトレーニング。
第三船倉でのトレーニング

 ひらめいたのが食事時間の利用。自衛官・観測隊ともに食事時間は11:15-11:45(昼)、17:15-17:45(夕)と決まっている。さすがに飯くってすぐにトレーニングする人はいないので、その前後30分程度はトレーニングルームも空いているだろう。案の定1112時はジムもがら空きだった。食事時間が決まっている艦内ではそのために食事を抜かなければならないが、トレーニング以外はほとんど動かず、しかも昼食夕食に栄養満点の食事を提供してもらっているので、昼食ぐらい抜いてもへっちゃらだ。補給食の類もある程度は残っている。週1回はロングトレーニングの日に悪天候で甲板が使えない場合には、この手でトレーニング時間を確保した。普段は朝食を食べないが、ロングトレーニングをし、悪天候が予想される日は、がんばって早起きをして朝食を食べてから11時すぎにジムを利用することにした。

 

 このシフトはある程度機能したのだが、ある昼食時にトレーニングにいくと、観測隊2人の先客がいた。昼食直後にやってきた観測隊員もいる。彼らはいずれも昼食を抜いたようだ。同じような境遇にあれば、同じようなことを考えるものだ。やれやれ。

 

 

ジョグと筋トレを組み合わせたサーキットト  レーニングが15-16時に行われている。ロッキーのテーマが似合いそう。
ジョグと筋トレを組み合わせたサーキットト レーニングが15-16時に行われている。ロッキーのテーマが似合いそう。

 艦の方でも対策は考えている。三船倉(さんせんそう:第三船倉の略)が開放になった。その名の通り、観測隊の物資を入れる倉庫だが、昭和基地に置いてきた物資のため、多少のスペースが生まれている。決して広いとはいえないが、サーキットトレーニングにはもってこいだ。夕方15時から16時は自衛隊員が60秒+30秒のアラームを流しながらサーキットトレーニングしている。狭い倉庫の中で4-5人のがたいのいい男たちが隊列を組んでジョグしているのは、トレーニング慣れしていない人には異様な光景に映る。でも、一回自分でやってみると意外と楽しい。積荷の間のスペースをちょこちょこ走って30mくらい、3~5周ごとに各種筋トレをして、それを3セット程度やると、40分はあっという間だ。無機質の倉庫然とした風景の中での筋トレにはロッキーのテーマが似合いそうだ。

多くの自衛官も艦内ロゲイニングに参加
多くの自衛官も艦内ロゲイニングに参加

 3月10日には艦内の娯楽大会が開かれたので、相乗りでフォト形式のロゲイニングをやった。とはいっても狭い艦内、地図なし写真票のみでやったので、まあ宝探しだ。安全上の配慮からも「走行禁止」で実施したので、トレーニングとは言いがたいが、自衛官も含めて多くの人が参加してくれた。取材の際には、画板に艦内の地図を作成しながら、普段観測隊員の入らないスペースに入ってうろうろして、写真まで撮っている。いかにしらせとは言え、自衛艦なのだから相当怪しい行為に見えただろう。だが、南極大学で講師を引き受けたときに「特技:アウトドアスポーツイベント運営」と紹介し、ロゲイニング実施のPRをしてからは、ポイントを物色していると「あ、ロゲイニングですね」と分かってくれて話しが早い。ポイントの薀蓄などを聞くと丁寧に教えてくれるまでになった。

 

 もちろん、観測隊としらせには届けた上での実施である。観測隊の世話役の方がポイントのチェックまでしてくれた。「複数あるものがありますが」、ゲームの趣旨をちゃんと理解してくれている。「はい、番号や右舷、左舷の構図で区別させます」。「航行支援室は入口と加えてください」そりゃそうだ。しらせの航行支援室は普通の護衛艦なら「戦闘指揮室」だからな、民間人に入られても困るだろう。観測隊からは「マグロ用冷蔵庫」に「マグロ削除」の修正要望が出た。もともと生物系のサンプル冷凍のためのマイナス60度の冷蔵庫を、行きは入れるものがないのをマグロ冷凍用に使っているのだ。さすが国家プロジェクト、国民にあらぬ誤解を抱かれないリスク管理も怠りない。

 

 来週3月17日にはしらせ100周チャレンジを実施予定。自衛隊員も観測隊員もかなりトレーニング好きだが、100周走ったという経験は聞いたことがない。一周250mだから100周で25km。双方にとってしらせ乗艦のいい記念になるだろう。

 

39. 過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知について

 自然の中では何があるか分からない、だからそれに備えよ!とよく言われる。この言葉は半分は合っているが半分は間違っている。山野に限れば山岳遭難統計から分かるのは、遭難原因(態様)は高々13に分類されており、その他は5%程度に過ぎない。しかも、上位6態様で85%くらいを占める。統計的には何が起こるかはちゃんと分かっているのだ。その一方で、ある遭難態様がいつどこで誰に起こるかは不確実だ。それは自然が十分管理されていない環境であることに由来する。突然横の斜面が崩れるかもしれない。また、変化の影響は想定外に拡大しやすい。都会なら突然の雪でも喫茶店に逃げ込めが済むかもしれないが、山では数時間の行動を余儀なくされる。変化に対応できなければ、生還はおぼつかない。

 

 こんな環境だから、リスクマネジメントが必要だ。一般にはリスクマネジメントは、リスクを特定し、それを分析・評価し、評価に応じて対策を採る(対策は回避だけとは限らない、低減、保有などもある)プロセスを意味する。そして多くの場合、分析・評価は損害×確率で行われる。この考え方は自然の中でのリスクマネジメントにも適用できるが、十分ではない。なぜなら、自然の中でのリスクの多くは高損害×低確率である(たとえば落石は当たったら致命的だが、そうそう起こらない。遭難の1%としても年間30件。これは国民の延べ登山回数約4000万回に比べたら100万分の1程度である)。管理の程度の低い場所では高損害×低確率のリスクに対してできることは少ない(それをすれば自然が自然でなくなる)。保有(そのままにする)、あるいは共有(保険をかける)が一般的な対応方法だが、これでは個人にとって何もしないに等しい。経済的な損害であれば確率×損害でリスクを評価してもよい。なぜなら、失ったらまたのチャンスに投資できるからだ。だが、自然の中の自分の命であればそうはいかない。一方で、自然の中のリスクは状況(天候、自分の体調・・・)など多くの要因に規定されており、その情報を得ることができる(天気予報を聞く、自分の体調に敏感になる)。それによってリスクの変化に対して適切に対応できる可能性がある。

 

 そのようなリスクマネジメントの方法は、自然の中に入るエキスパートなら誰もが身につけていることだろう。その一部は山の啓発書にも書かれているが、微妙な判断については、文書化されていない(興味ある方は拙著「山のリスクと向き合うために」(東京新聞)等をご参照ください。58次越冬隊長は(暇だったのかもしれないが)3回読み直したという)。このような知識を認知心理学の言葉で実践知と呼ぶ。エキスパートの頭や体に染み付いた実践知を明らかにすることは、自然の中で活動する人たちの安全に資するのではないだろうか。今回の研究で主たる対象としたのは、フィールド科学の学徒だが、彼らだけでなく、僕が普段関わっているアウトドアスポーツの活動者にも役立つものになる可能性がある。それが、今回の南極地域観測に同行した最大の理由である。 

 

 過酷な自然環境とそれに対するリスクマネジメントは南極に限らないが、南極地域観測は、この研究テーマに対して理想的な環境を提供してくれた。第一に、過酷な自然(活動)環境であること。これについては多くの説明の必要はないだろう。もちろん今回参加したのは、今年の日本の冬よりも暖かい南極の夏期間ではあった。だが、強風や変化の激しい天気、限られた輸送とサポート資源など、リスクを高める要因は多い。さらに南極地域観測が個人のリスク研究に適しているのは、ここでしか経験できない特異なリスクがあり(たとえばタイドクラック、ウィンドスクープなど、最初の集合時には未経験者の約半数が言葉さえ知らないと答える)、しかも初参加の隊員は、それについてたった1~2年という短期間で高い動機づけを持って学習する。しかも、内省力の高い人を多く含み、往復のしらせという相当期間の共同生活の中で、本来であれば超忙しい彼らに比較的容易に調査対象を依頼できる。南極は環境心理学にとって天然の実験室である、と言った研究者がいたが、リスク認知についてもこのことが言える。

 

 帰路のしらせで概略の分析をした段階なので、成果の詳細は控えるが、特に野外活動の安全管理を行うフィールドアシスタント隊員からの聞き取りをベースに、リスクの兆候以前の防御的な対応と、オンサイト(現場)の情報を積極的に活用した対応の大きく二つの柱からなる実践知の構造把握ができた。しかも、これは対応するリスクの変動性、致死性や制御性に対応していた。もう一つのテーマとして、同じリスク源を見てもリスクの評価が異なること(これ自体は珍しいことではないが)、それが様々な経験と科学的バックグラウンドによって説明できる資料を得ることができた。多くの場合リスクは潜在的である。しかし、知識の有無によって潜在性は異なる。それを解明する手がかりが得られた。

 

 研究成果は、過酷な自然環境下で活動する科学者、働き手、あるいはアウトドアスポーツの参加者に役立つだろう。だが、使い道はそれだけではない。自然災害が起これば、環境の管理の程度は低下し、リスクの変動性が高まる。あるいは倫理的行動的な問題から、本来安全が管理されているはずの都市環境でも突然リスクの変動性が高まることがある(簡単な例でいれば、信号無視の車がいれば、青信号の横断歩道のリスクは激変する)。過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知を学ぶことは、こうした事態に対しても対応しうるタフな市民形成にも役立つのではないだろうか。

 

 24回の「年越し」でも触れたが、「国を強くする」というと、どうしてもきな臭さがただよう。だが、個人の自律と幸福の集積の結果として国が強靭になることは決して悪いことではないと思う。そうだ。これは二十歳のとき始めてスイスにオリエンテーリングで遠征して、スイスに対して漠然と感じたことだったのかもしれない。

38. 南極大学しらせキャンパス

南極大学の1コマで発表。タイトルは「過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知について」
南極大学の1コマで発表。タイトルは「過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知について」

  砕氷艦しらせは、行きはフリマントルからの20日間、帰りは約50日かけてシドニーまで観測隊を送り届ける。フリマントルからシドニーは直接移動しても3-4日もあれば到達できるだろう。それなのに帰路の船旅が50日もあるのは、帰路には昭和基地から東の海岸に沿って海洋調査や露岩域の調査をするからだ。そもそも2月1日に昭和基地を去るのだと思っていたら、14日まで昭和基地付近でプカプカしていた(これも海洋観測だったり砕氷性能の試験だったりする)。そこからさらに海洋観測したり、アムンゼン湾で野外調査があったりするので、それほどゆっくり動いているわけではない。

 

 いずれにしろ船旅は長い。そこで各種イベントが行われる。年末には餅つき大会が行われた。帰路には艦内娯楽大会や南極工芸展が行われる。それらの中でも、観測隊+自衛隊っぽいのが、「南極大学」である。行きは4日間8コマ、帰りは4日間9コマが開講された。主としてしらせの乗員のために開かれているものだが、もちろん観測隊員も聴講できる。南極に関する分野では日本を、いや世界をもリードする研究者たちから話を聞けるのだ。観測隊員にとっても、貴重な機会である。

 

 帰路の南極大学は、2月28日から3月3日にかけて行われた。既に観測を終えた後なので、南極で何をしてきたか、そのバックグラウンドを含めて話が聞ける。初日はペンギンガール田邊優貴子さんだが、今回はペンギンの観測ではなく、南極の湖に広がる生態系の調査をしてきた。氷に覆われた大陸南極だが、夏には露岩が広がり、氷食によってできた地形には随所に湖が広がる。しかも、少しづつ氷河が後退することで、湖の成立年代が異なる。湖ができてからどのようなプロセスを経て生態系が確立までのプロセスが、同時に観察できる可能性があるのだ。特に彼らが注目しているのは、コケボウズと呼ばれる湖底の生態系である。今回、その観察に投入された水中無人探査機を作成した後藤さんも、技術者魂あふれる製作の苦労話を紹介してくれた。

 

 二日目は、ドーム隊で約3ヶ月のドーム旅行と地底探索などを行った大野さん、設営の永木さん、鎌松さん、葛西さんが昭和基地の維持に関する話をしてくれた。この日は、さらに氷河チームでも行動をともにした伊藤さんが、マニアックな海氷のでき方の話をしてくれた。真水のように純粋な物質の温度による挙動は実験でも把握しやすいが、複雑な自然環境に取り囲まれた塩水が凍るメカニズムも2000年ごろまで全然分かっていなかったらしい。現在では過冷却された海水が氷になることが定説になっているが、それでも、なぜそれが海面下75mまで入り込むかなどのメカニズムはわかっていないらしい。実験室では予測できない現象があるところがフィールド科学の魅力なのだろう。

 

 3日目は氷河チームの箕輪さんの発表だった。南極の氷は概ね降った分だけ海にでていく。この質量流出は氷山が主だと思われていたが、海洋に接する場所にある氷河の延長である棚氷の底面融解がほぼ半分の貢献度であることが最近分かってきた。その相互作用を解明するための基礎的データの収集が彼らの研究目的だ。現場で日々見てきた地道なデータ収集から、大局的な仕組みが描かれるところをリアルタイムで眺められた。この日は私も発表をさせてもらった。タイトルは「過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知について」だが、内容については次回紹介する。

 

 最終日は宙空の江尻さんの発表。宙空という言葉は宇宙と空の境界領域(およそ地上100km)を指す言葉だが、南極観測以外ではほとんど使われていない。だが、大気圏からのエネルギーの伝達と同時に、宇宙からのエネルギーと物質(流星)の相互作用が盛んで、上から下から大童状態なのだそうだ。地球環境に大きな影響を与えかねない大事な場所だが、普通のジェット機が高度10km、逆にISSやスペースシャトルが350kmくらいで、その中間である宙空圏にはなかなか行きにくい。従ってリモートセンシングが主ということになる。どうりで宙空は昭和基地にバンバンアンテナが建っているわけだ。ラストバッターはペンギンの國分さん。帰ると生後10ヶ月のお子さんが待っているという。そのお子さんが将来の研究者を目指してペンギンの捕獲練習をしている可愛い写真(ぬいぐるみです、もちろん)を見せてくれた。

 

 どの発表を聞いても、フィールド科学の面白さと同時に、自然に関する基本的なこともけっこう分かってないのが印象的だった。それを解明することに南極観測、引いてはフィールド科学の意義があるんだね。最終日には講師全員に艦長名での記念の盾をいただいた。なんと講師名まで金属板に刻印されている。艦のあらゆる工作に対応する応急工作員から見れば、朝飯前のことなのだろう。

37. しらせの意外な一面

巡検には鬼がやってきた
巡検には鬼がやってきた

 

 自衛艦というと堅いイメージがある。南極観測にほぼ専属しているしらせも、 海自が管理する自衛艦であり、海外では「軍艦」の扱いを受ける。国の威容に関わるので規律が厳しく、観測隊員にも7pに渡る艦内生活のしおりが渡される。 サンダル、ハーフパンツ等のラフな格好で上甲板にあがることは許されていない。艦橋にいく場合にも、着帽が必須である。威厳を正して緊張して艦橋にいくと、意外と気さくに話しかけてくれたりする。

 

 起床前と19時には、人員点呼がある。観測隊の当直が、異常の有無を艦橋に知らせる。などがある。当直になると、朝5:30すぎに全ての隊員居室を回って、人員確認をする。夜には巡検があって、艦内で異常がないか確認する。この際、トイレ、風呂を使うことはできない。

 

 それでも、海上自衛隊としては例外的に民間人を長期にわたり乗せており、「自衛艦」のイメージからすると随分と意外な側面を見せてくれる。毎日、20時ごろに巡検が終わる。「巡検終わり」の後、翌日の日課が放送される。その放送が終わって、ちょっとした間のあとに「明日のおめでたい話」が放送される。

 

「明日は、*分隊の***さんの誕生日、おめでとう!」という呼びかけの後に、周囲で拍手とおめでとうの声が入る。乗員そのものに加えて「乗員家族のおめでたい話」が入ることもある。これを聞いて、あわてて誕生日のメッセージを贈った隊員もいるというから実利も伴っている。また一回だけ、出産の報告があった。2/28に流れた明日のおめでたい話は「今月は29日がないので、明日3月1日はステーキです(毎9日は肉の日でステーキとなっている)。

 

 放送といえば、まだ鯨やペンギンが珍しかった12月半ばには、しょっちゅう「右右50度、1000m、くじらの群れ発見」などと放送が入る。「ペンギンが泳いでいる。泳法はバタフライ。」との放送が入ったこともある。威厳ある艦橋がお茶目に感じられる瞬間である。

 

 変化の乏しい艦内では、日本にいるとき以上に年中行事が大事にされている。クリスマスには隊員公室の入り口にクリスマスツリーが飾られた。年末年始には門松が飾れら、「煩悩神社」のミニチュアが建立された(木製、応急工作員による手作りである)。除夜の鐘も鳴らされたとか。また、1216日には餅つきが艦内倉庫で行われた。ずいぶん早いのは20日からは観測隊がヘリで南極に出てしまうからだろう。餅つき自身は5回ほど杵を下ろすと終わる小学校のようなイベントだが、つきたてのお餅を雑煮や様々なトッピングで食べることができた。

夕食には太巻きが出た。ご丁寧に恵方が示されている。
夕食には太巻きが出た。ご丁寧に恵方が示されている。

 節分のときには恵方巻きが夕食に出た。ご丁寧に恵方が食堂に掲示されていた(写真参照)。巡検には鬼が回っていた。昭和へのヘリコプターフライトも、角を生やした鬼が運転していた。

 

 自衛隊らしい訓練として耐寒訓練があった。このイベントは南極地域に入ってから行われるもので、当然寒い。その寒さの中、ふんどし一丁(コスチュームは任意)で、甲板を歩くものである。今年は晴天に恵まれ、無風だったため、それほどでもなかったが、50歳過ぎた身にはつらかったが、南極でふんどし一丁になった貴重な思い出である。

 

 

36. ちょっとマニアックな昭和基地紹介

動物注意!
動物注意!

 南極というと「白い大陸」のイメージがある。実際そのとおりで、98%は氷に覆われているのだそうだ。一方で2%の露岩地帯があり、昭和基地はその露岩地帯の一角にあるオングル島に位置する。露岩域だけに夏期間の昭和は南極というよりはアメリカの中西部の荒野のようだ。気温と湿度の条件で見ると、南極の環境は場所によっては地球と言うよりもほとんど火星だ。

 

 昭和基地の夏は、雪こそ残っているが、ほとんどの区域で岩や砂が露出し、おまけにいたるところ建設工事中だったり、建設資材がデポされている。まるでダムの工事現場だ。環境面に配慮して、道路の舗装はもちろん、整地も十分にはしていないので、トラックで走っていても乗り心地の悪いこと、この上ない。

 

電離層が提供する峠の茶屋。後ろの白い建物が電離層棟
電離層が提供する峠の茶屋。後ろの白い建物が電離層棟

 夏隊が宿泊する夏宿は、基地の中心部の管理棟から300mほどのところにある。通信の隊員は通常業務のために管理棟まで毎日通わなければならないし、僕らも管理棟付近での建設作業があると、その支援のために移動する。途中ちょっとした峠があって、その脇にある電離層の研究棟が天気のよいときには茶屋を開業している。越冬ビール(つまりは期限切れのビール)が置いてある。一度もらって飲んでみたが、ビール通でもない僕には、まあちょっと金属くさいかな程度だった。

 

 

 昭和基地管理棟のすぐ北側の海岸には福島ケルンが建っている。これは196010月にブリザードのなか消息を絶った福島隊員を偲ぶものである。福島隊員は、9次隊のときに約7km離れた西オングル島で遺体となって発見された。9次隊には、遭難時の4次隊のメンバーも数多くいたという。このケルンは南極条約協議国会議で史跡に認定されている。 

 

基本観測棟の上棟式の風景。
基本観測棟の上棟式の風景。

今年の建設活動の目玉は、建設に入ってから4年目になる基本観測棟である。これまでばらばらであった地学や気象観測の建物を一つにまとめる計画で、12角形の洒落たつくりである。ちょうど昭和に滞在していたときに、屋上の防水工事を手伝った。雨漏りがあれば、僕の責任である。供用は61次、まだ2年後だが、今年外装までは終了したので、上棟式が行われた。日本でも滅多に見ることのない本格的上棟式で、神主まで登場して、最後は餅まきまで行われた。

 

 昭和基地には、「アンテナ林」というエリアがある。その名のとおりアンテナが沢山建っているのだが、アンテナ林に限らず宙空の様々な観測をする昭和基地はいたるところにアンテナが林立している。その中でも異彩を放つのがパンジー(大型大気レーダー)エリアである。約1000本のアンテナが幾何学的に建っている。蜂の巣状に配置されたアンテナが空から見るとパンジーの花のように見えるらしいが、地上から見ると十字架の林立した公園墓地のよう。パンジーは、一つ一つは小さなアンテナを広い範囲に数多く建てることで、巨大アンテナに相当する解析力を持つレーダーを作れる、物理的に動かす必要がないので、即時的に多方向にアンテナを指向させることができるのが売りらしい。それで大気の状態を監視しているのだとか(パンジーは宿舎棟から遠いので残念ながら写真がない)。

 

 1000本のアンテナのメンテを一人で受け持っているパンジー隊員はいつも大変そうだった。越冬期間は零下数十度の中、腹ばいになりながらメンテナンスをして、一週間点滴生活を送ったこともあるそうだ。「私ら下々の者がしっかりデータを取ることで、世界的な研究成果が出ているんです」とパンジー隊員は胸を張っていた。パンジーエリアは、そんな技術者魂が南極観測を支えていることの象徴のように思える。

 

 僕の一押しの風景はこれ。道路わきの動物注意と国道標識。動物はもちろんペンギンだし、国道標識もよく見ると「極道」と書いてある。極の道だから極道なのだが、きっと「ごくどう」と読ませるのだろう。

動物注意!
動物注意!
極道13号線
極道13号線

35. Happy Valentine!

写真はイメージです。*諸事情により現地からの写真はなし
写真はイメージです。*諸事情により現地からの写真はなし

  いまどき、チョコレートで愛を告白する女の子などいないだろうが、シャイな日本人にとっては、バレンタインデーは男女間のコミュニケーションを支えている。しらせの中でも、先任海曹室からバレンタインデーのイベントの告知が掲示された。艦長、副長の確認もある公文書「バレンタインイベント実施要領」である。実施は2月14日の夕食後から19:00まで。場所は科員(乗員)食堂。配給係の氏名が列挙されている。「チョコレート被配給対象者は乗員及び観測隊員」つまりは僕らもチョコレート(?)がもらえる!

 

 細部実施要領によれば、被配給者が好みの配給係からチョコレートを受け取る。しらせには10人強の女性自衛官が乗っているが、イベントでのチョコレート配給係は、2月上旬に掲示された「本当の自分をみつけたい人募集!」に応募した男性自衛官である。「配給係に失礼な言動を慎むこと」という注意事項も付記されている。

 

 当日の科員食堂は、キャバレー仕立てになっていた。いかにも夜の街にいそうなオレンジのはっぴを着た客引き姿の乗員が「本日一年ぶりに新装開店、大感謝祭実施中。あなたも気になるあの子が絶対見つかる!」と連呼している。「彼女たち」のクオリティーの高さに目を見張る。JK姿、セイラー服、メイド服、チャ イナドレスまで、ほぼ半日をかけて女装したとか。見事な女装振りは紹介したいところだが、残念ながら実施要領に従って写真の掲載を見合わせる。

 

 メイド姿の「女性」から袋をいただいた。10オングル(南極でのみ通用する仮想通貨。見た事がない)のオプションサービスのパンチラをお願いしたら、拒否された。そろそろ甘いものに飢え始めた船内生活にチョコレートは貴重品だが、船の生活に退屈しはじめた心の糧にもなった。

 

 しらせのバレンタインはこれだけに終わらなかった。昼前に58隊の女性隊員が部屋を訪ねて来て、チョコレートの入ったガラス瓶をくれた。58次のロゴが入ったラベルには驚かなかったが、ビンの底ラベルを見て、その芸の細かさに感服した。「JARE58特性バレンタインチョコレート、原材料名:愛情、感謝、砂糖、牛乳・・・、内容量は愛情詰め合わせ、適量」とある。ラベルは手間ではあって

も、越冬隊なら作るくらいの時間はあるだろう。チョコレートも越冬隊の「デブ倉庫」にあったかもしれない。だが、60個を越える小瓶はまさか201611月に用意してあったのか!?

 

 午後には、今度は59次の女性がチョコレートを持ってきてくれた。こちらは紙製の雪上車の模型の中にブラックサンダーが入っている。ブラックサンダーの包装紙は59特製だ。しらせに乗ったらこんなものは用意できないので、やはり昨年11月以前に準備したものなのか!?

 

 彼女たちの気合に脱帽。

34. Cuisine in Antarctica

カップヌードルの宣伝になりそうな写真だが、実際研究活動に忙しいお  昼は、カップラーメンやα米でさっと済ませることが多い。すぐに食べられて  熱々のカップ麺はありがたい。
カップヌードルの宣伝になりそうな写真だが、実際研究活動に忙しいお 昼は、カップラーメンやα米でさっと済ませることが多い。すぐに食べられて 熱々のカップ麺はありがたい。

 父は整理上手で、実家には呆れるほど無駄なものが少なかった。亡くなったとき、実家には南極関係の資料は限られたものしか残されていなかったのだが、その中に15次隊ミッドウィンターのお品書きがあった。手書きのそれは、少し厚紙の表紙には肉筆の南極風景画が描かれるという凝りようだ。西村淳が書いた「おもしろ南極料理人」にも描かれるとおり、ミッドウィンターは、越冬隊にとって最大のお祭りである。大の大人が3日三晩学園祭のノリで遊びつくす。料理も贅を尽くした品々がならぶ。15次隊のお品書きには、前菜にオングル海峡産サーモン、ラングホブデ沖いか雲丹焼き、弁天島産白魚亀甲焼き等々と並ぶ(産地は南極の地名であり、事実かどうかは怪しい)。メインディッシュは大和山脈風ローストビーフ、白瀬氷河風伊勢海老、また模擬店には晩年寿司屋を開いた小堺氏らしく20種の「皇帝寿司」も並ぶ。ミッドウィンターの酒池肉林は夏隊の僕には経験できないが、いったい南極で何が食えるのだろう?観測隊同行が決まってからの興味のひとつは南極の料理であった。今回は、しらせも含めた南極観測隊の料理を大紹介!

 

15次越冬隊のミッドウィンターの食事お品書き。これが4ページ分ある。
15次越冬隊のミッドウィンターの食事お品書き。これが4ページ分ある。

 フリマントルを出港したその晩は、前日に解禁となったロブスターが食卓にならんだ。刺身かボイルをチョイスできた。いまやロブスターは珍しくないが、刺身を食える機会はそうはないだろう。まよわず刺身をチョイス。ボリュームでボイルには劣るが、珍しい味を楽しむことができた。

 

 しらせの食事は、概ね6:15、11:45、17:45の3回提供される。自衛隊時間は-15分のペースで進むので、朝食は6時すぎ、昼食11:30ごろ、夕食は17:30に供される。朝食は質素だが、昼食・夕食は味やバランスに工夫が見られるがっつり系献立が多く、変化の少ない航海中の最大の楽しみであった。たいていの観測隊員は往復のしらせでかなり太るという。特に昼食は、メインの肉か魚に加えてお惣

菜が3種類、場合によってはデザートがつくという充実ぶり。

 

 

 定例メニューが2つある。ひとつは海軍以来の伝統の金曜日の昼のカレー。そして9日の肉。カレーはイカ墨を加えたカレーやらキーマカレーにナンが付くなど、現代風にアレンジされている。一方肉の日はしらせの習慣らしく、ほとんどの場合ステーキがメインで、この日だけはワインも出る(観測隊では飲酒は常時可能だが、自衛官は限られた機会しか飲酒が許されていない)。南極圏(南緯55度以南)では食費が約1.5倍になるのを平均化しているようで、食材もよい。肉も某結婚式で人生の中で一番おいしかったステーキに次ぐおいしさだった。また、時々郷土料理がメニューに含まれる。広島の郷土料理村上水軍にちなんだ水軍鍋とか、八戸のせんべい汁がでた。自衛隊員にとっても、5ヶ月にわたる任務の最大の楽しみなのだろう。

 

 大晦日と正月をしらせで過ごした時には、年末年始らしいメニューが供された。おおみそかはえび天の乗った年越しそば。そして元旦はおせち料理がでる。いかにも手料理のおせちは、プラスティックではあるが、一人ひとり弁当箱に詰められていた。コハダの粟漬けから、きんとんや黒豆、有頭車海老など19品からなる本格的なもの。それに特製包装の焼酎が付く。しらせで年越しできてよかった。

 

 年末と2月中旬のそれぞれ3日間、ソフトクリームが出た。ソフトクリームを渡されて科員食堂(自衛隊員の食堂)から出てくる隊員の顔は、どれも子どものような笑顔でほほえましい。 

 

クリスマスの夜を若者と過ごす。ワインにクラッカー、フライパンではピザを焼いた。デザートにケーキ。日本にいるとき以上に(?)クリスマスらしい夕食。 
クリスマスの夜を若者と過ごす。ワインにクラッカー、フライパンではピザを焼いた。デザートにケーキ。日本にいるとき以上に(?)クリスマスらしい夕食。 

 昭和基地での食事はしらせから提供される食材で、観測隊の調理隊員かしらせの調理隊員によって作られるが、野外調査の際は、予めしらせから提供される「糧食」を、各チームが自分たちの日程に合わせて資材とともに現場に持ち込む。計算された総量から、チームの人数×日数によって按分されて配布されるのだが、間違いではないのか?と思うような莫大な量が提供される。もちろん、ヘリが迎えにこれない事態もあるだろうし、基本的には手をつけない非常食もある。それにしても多い。しかも、場慣れしたチームは、足りない食材や調味料を持ち込む。

 

 実際に食べる献立はチームによりけりである。料理にこだわりとスキルがある人がいれば、野外でも「おー」と感嘆する家庭料理も出てくるが、こだわりがないと、初日が焼肉、二日目が鍋、三日目の朝は鍋の残りでおじやとなったりする。なにしろ野外調査とはいえ、多くの場合、観測資材も食材もヘリでキャンプの間近まで持ちこむのだ。量に関しては文句のつけようがない。氷河の予察キャンプでは、クリスマスの晩にはピザに解凍したケーキ、ワイン(これはチームの持ち込み)が堪能できたし、ボツヌーテンでは、これでもかというくらいの肉を食べさせてもらった。長期にわたる寒冷環境での調査だ。これくらい食べないとやっていられない。南極に滞在中は、10時、15時にはお腹がすくので、必ずおやつを食べ、日常的にもチョコレートをぼりぼり食べていた。それでも太ることがなかった。南極恐るべし。

33.How to run in the Antarctica

しらせ甲板を走る(撮影:島袋羽衣)
しらせ甲板を走る(撮影:島袋羽衣)

 もはや現役ではない僕にとってトレーニングは重要ではないが、日々のリフレッシュのために走ることは欠かせない。南極での約一月半、それにも増してしらせでの往路20日、復路45日でどうやって走ろう。これは南極観測に同行するにあたっての切実な課題であった。

 

 狭い艦内生活にどう対応するかをあれこれ考えていたが、杞憂だった。さすが自衛隊の艦船である。長い航海の中で、ほぼ毎日「艦上体育」の時間が設定されている。しかも朝8時から21:30までだ。つまり、一日のうち、ほぼいつでも甲板を走ってよい。

 

 8時になると放送が流れる。「まるはちまるまる(0800)からふたひとさんまる(2130)、まで艦上体育を許可する。天気晴れ、気温0.3度、風速10ノット、湿度45%。ランニングは時計回り」(詳しくは19回、20回を参照)。航空機による輸送があると、後部の飛行甲板は使用禁止となるので、「ランニングは中部より艦首側でおこなえ」と補足がある。2月に入ってからは何度か、「天候に

鑑み艦上体育は艦内のみでおこなえ」と補足が入る。

 

 艦内にも運動できる場所はある。第三甲板には保養室という名のジムがあり、自転車2台、ランニングマシンが1台ある。ランニングの日数を抑えるため、ジムではできるだけ自転車を漕いでいた。だいたいレベル4~6。負荷を上げるときは8~10を短時間。となりの自衛隊員がゆっくり自転車をこいでいる。それじゃあ効果ないよと内心思いながら、ディスプレーをちら見すると、レベル10だった。うしろでは、うめきながら筋力トレーニングをしている隊員もいる。自衛隊員恐るべし。

 

 しらせの甲板は一周250m。リュッツホルム湾の景色はノルウェーの沿岸部に酷似している。フィヨルドの沿岸急行船、スローTVの世界の中でのランニングは飽きない。陸が一切見えない航海中は、さすがに音楽が必要だ。「マーシャン(「火星の人」(映画邦題は「オデッセイ」)のサントラは、荒涼とした風景にぴったり。

 

 1月にしらせに一度戻ったときにインターバルトレーニングをしてみた。翌日久しぶりに筋肉痛になって、病みつきになった。甲板は硬いので、ひざには要注意だが、メリハリをつければ狭い中でもかなり楽しい。2月も中旬になると、みんな退屈しはじめたのか走る人が増えて、これまた楽しい。

 

 野外調査のときも、なるべく体を動かすようにした。ただ、何かあったときに対応が遅れると安全上も問題なので、キャンプのテントが見える場所しか走らない。時間を決めたファルトレクだ。寒いとは言え、所詮夏だ。マイナス20度のフィンランドの早朝ランニングに比べたらピクニックだ。今年の日本は寒いというから、おそらくそれよりはよいトレーニング環境だったはずだ。

 

 氷河上でも走った。氷河といえばクレバスだが、氷河掘削チームの親分杉山先生によれば、ラングホブデはおとなしい氷河であり、「(流速の緩やかなエリアであれば)絶対にクレバスに落ちることはありえない。」しかも、解けた表面が夜間に再凍結し、氷河の表面は適度にさくさくしている。勝手なところを走るのはやはり安全上も問題なので、すでにスノーモービルのトレースや人の通った実績のある場所を走る。このチームはキャンプを張った場所から掘削地点まで500m以上「出勤」していたので、その出勤コースを走った。この様子はFAの土屋さんがビデオにとってくれた。僕のFBに「氷河を走る男」というタイトルでリンクが張られている。誰もいない氷河の中で走る姿は、我ながら格好いい。

 

 ランニングをするもうひとつの理由がある。キャンプ中は基本的にシャワーは利用できない。水はふんだんにあるが、氷河の隣の湖だったり氷河上の小川だったりするので、基本水温は0度だ。この水で体を洗うのは辛い。だが、ランニング直後の体が中から温まっている時なら我慢できる。30分程度走って、着替えを持って、湖へ!さすがに入水すると文字通り命に関わるが、濡らしたタオルできれいさっぱり。走って良かった!

 

 野外調査の中で唯一ボツヌーテンでは走らなかった。標高1400mのボツヌーテンはマイナス10度前後、しかも強風だった。あまりに寒くて走る気にならなかったのだが、山登りで体が動かせた。

 

 地理院の測量ではオメガ岬とインステクレパネという二つの露岩に出かけた。露岩は、石と砂がミックスしており、一般的にはあまり走りやすいとはいえない。インステクレパネの測量のときには、山の上の基準点でのGPS測量の間、2時間のフリータイムとなった。距離にして200m下にインスタ映えする湖があった。湖と基準点の間はしっかりした岩盤がつながり、ちょうどよいヒルトレーニングコースになった。1997年のノルウェーでの世界選手権の際に、沿岸部でトレーニングしたときのことを思い出した。

 

 ランニングがもっとも大変だったのは、実は昭和基地だった。夏の昭和基地は設営作業のため、作業時間が18:45までと決まっている。その後19:00から夕食、19:30からミーティングで、自由時間はその後となる。もちろん終日明るいので夜も昼もないのだが、やはり夕食をしっかり食べると胃がもたれるし、安全面からも好ましくない。夕食をパスして、夕食時間に走るか、夕食を限りなく少なくして、21:00ごろから走るといいう二択である。「ランニングより三度の飯が好き」だが、「三度目の飯よりはランニングが大事」なので、4回くらい夕食をパスして走った。しっかりした昼食が出ることが多かったので、苦にはならなかった。昭和基地は建設工事現場みたいでリスクがいっぱいなので、基本ヘルメット着用である。アドベンチャーレースをしていたころを思い出す。

 

 レクでオリエンテーリングをやる気満々だったのだが、結局夏期間は忙しくてチャンスがなかった。ただ地理院のベクトルデータが入手できたので、ISSOM仕様の地図は作った。越冬隊でスポーツの好きな隊員に託すつもりで、写真撮影型式のスコアオリエンテーリングのコースは用意した。やってくれたかな・・・

 

 帰りのしらせは45日。フォト型式のロゲイニングもどき、それからウルトラスプリントと称して、ラビリンスOもやろうと企んでいる。

32. My office

野外を含めての約4ヶ月、いつもの研究室を離れて仕事をする。これは自分に とってもはじめての体験だった。調査はもちろんだが、その合間にも資料整理をしたり、考えをまとめたりする。その環境は、しらせ艦内から野外のテントまで多岐にわたった。4ヶ月間、私の研究活動を支えてくれた「office」を紹介する。

 

①しらせ艦内

しらせのオフィス。中型ダンボール4個が優に入る棚と、衣装ロッカー、その他収納スペースは多いのもうれしい。
しらせのオフィス。中型ダンボール4個が優に入る棚と、衣装ロッカー、その他収納スペースは多いのもうれしい。

  1127日に日本を出発し、翌28日の昼にはオーストラリアのフリマントルに到着した。そこから私の研究活動がスタートした。そこから往路20日、帰路約45日のしらせでの生活がはじまった。しらせは通算2ヶ月を越える南極観測における主要なオフィスであった。

 

 しらせは、2008年に進水した自衛隊3代目の砕氷艦である。排水量は12650トンで、175人の乗組員と約80名の観測隊員、1100トンの物資を輸送できる。観測隊の居室は1甲板(外から甲板だと認識できる01甲板のひとつ下)の中央から後ろ側に位置し、右舷左舷の各廊下の左右に約20づつの居室が配置されている。観測隊の居室は士官待遇の2人部屋で、二段ベッドに二人分のデスクとロッカー、簡易ソファーがある。このベッド、越冬を断念し、越冬隊員純増でも帰路につけるように、実は3段ベッドにもできる。幸い越冬断念はこれまで一度もないが、数年前にオーロラ号を救助したときは、このベッドが活躍した。

 

 ルームメイトは、秋田の高校の先生だった。「南極授業」という極地研の事業を実施するために全国から公募されており、毎年2名が派遣される。約60日間机を並べ仕事をし、そして時に飲みながら、南極のことから、今回の研究/仕事のこと、教育のことまで語らい合った。僕に寮生活の経験はないが、つくばでの大学院時代、冬になると研究室備え付けのストーブの上で同級生を夕食を作りながら、まじめな研究の話からどうでもいい話まで毎晩語らった30年前のことを思い出した。

 

 什器は基本固定されており、備え付けの書類棚の一部を開くと机になる。机の奥には電気とLANケーブルのコンセントもある。机の上に引き出しがあるので、文具や身の回りのものは全部手を伸ばせば届く範囲にある。足元の大きめの引き出しには衣服が収納できる。やや狭いのは否めないが、2ヶ月間の研究生活を支えてくれたお気に入りのデスクだ。

 

 唯一の問題点は、ネット環境である。多くの方には「ネット不可」として連絡を失礼したのだが、実はメールだけはやりとりできる。だが3Mという厳しい容量制限がある。初めて聞いたときには耳を疑った、3Mは通あたりではなく一月あたりの個人の割り当て容量なのだ。なにかというとpdfがすぐ添付される現代のメール環境では一発で今月のメールは「終了!」となりそうだが、テキストメールならけっこう使い手があった。ブログの原稿なら、どんなに長く書いても100Kにも満たないので、全く問題ない。ただ、せっかくの美しい写真も640×640程度にダウンサイジングしなければならなかったのは残念だ。

 

 帰路では、数十時間分のヒアリングのテープやビデオをがんがんテープ起こしして、疲れたらうしろのソファーに横になる、あるいは歩いて3秒の冷蔵バッグから冷たい飲み物を飲む(冷蔵庫はないので、隊員公室の製氷機から保冷バッグに氷をつめて部屋の冷蔵庫としている。もっと疲れたら、ベッドはすぐ隣だ。窓も見ないので昼か夜かも分からない(見えたとしても夏の南極では昼と夜の区別はそれだけではつかなかっただろう)。気分転換が必要なら、甲板でのジョギングもできる。あるいは4階あがると狭いながらもジムがある(これらについては後日)。十分すぎる研究環境である。

②予察キャンプ

 南極大陸での生活は、ラングホブデの氷河予察キャンプで始まった。氷河掘削チームは南極滞在の40日間のほぼ全てをここか氷河上のキャンプ地で過ごす。長いキャンプ生活にはプライベート空間が不可欠だ。ノースのドーム8というでかいテントを食堂に、一人にひとつのノースのこぶりのドームテントが与えられた。ドーム8は8人が楽に椅子座できる。個人テントは3人は優に寝れる。これを一人で使えるのだから、広さの点では申し分ない住処だ。昭和基地に運ぶ私物のダンボールを持ち歩いた僕は、それをテントの一角に据え、机代わりにした。

 

 予察キャンプはその名のとおり、本格的な調査スタートの前の偵察的なキャンプだったが、強風で停滞したときにはこのテントが僕のオフィスになった。テントだけあって、ゼロ度前後の気温では内部は決して暖かいとはいえなかったが、ちょっと厚着をして寝袋に包まっていれば十分だ。指先は寒いのでタイピングの効率はよくなかったが、全てのものが手が届く範囲にある。「行く川の流れは絶えずし、・・・」などと悟りきった気分にもなれる。今となっては、ここで今回の研究の最初のリサーチクエスチョン「なぜ安全だと考えられるのか」に思い至り、それについて考えをめぐらせたり、氷河チームのヒアリング記録を聞き直したことが懐かしい。

 

 

氷河予察キャンプでの「方丈」。狭くて不便なことも多いが、  「窓」を開ければ氷河が見える絶景の一軒屋でもある.
氷河予察キャンプでの「方丈」。狭くて不便なことも多いが、 「窓」を開ければ氷河が見える絶景の一軒屋でもある.

 研究活動だから、野外調査とは言え電気製品は欠かせない。氷河チームではなかったが、中には6000万円もする測器を持ち込む調査チームもある。デリケートなので、研究者の方は測器と添い寝である。どの野外調査でも発電機は基本用意されていたが、一時的なキャンプである予察キャンプには発電機の用意がなかった。これが唯一不便だったが、PC2台に大容量バッテリー3個、またビデオも10時間撮影可能な大容量バッテリーを3個持ち込み、研究に支障が出ることはなかった。

③昭和基地

夏のオフィス。通常ノートPCにディスプレーを接続して仕事をし  ているので、僕の仕事スタイルからすると、ディスプレーなしはけっこう厳し  い。変わりに持ち込んだソニーのデジタルペーパーは、重宝した。これで資料を  閲覧しながら、考えたことをPCで文章化。
夏のオフィス。通常ノートPCにディスプレーを接続して仕事をし ているので、僕の仕事スタイルからすると、ディスプレーなしはけっこう厳し い。変わりに持ち込んだソニーのデジタルペーパーは、重宝した。これで資料を 閲覧しながら、考えたことをPCで文章化。

 昭和基地で越冬隊が使う居住棟をビジネスホテルとすれば、夏隊が使う夏宿舎(1夏、2夏)は山小屋だ。1夏は食堂や風呂、トイレのファシリティーがある代わりに部屋は2段ベッド2基の4人部屋。2夏は二人部屋ながら、水関係のファシリティーが一切なく、あるのは熱水器のみである。1夏を昨今のややゆとりのある山小屋とすれば、2夏は避難小屋レベルだ。

 

 2夏の二人部屋には棚等が一切なく、ベッドの周辺は2辺に幅80cmの空間があるだけである。これを二人で使っている隊員は大変そうだったが、僕の部屋は幸いなことに同室者が最初から最後まで湖沼調査にでかけていた。二段目が棚に、1段目がベッド兼仕事デスクだ。必要なものは全て手の届く範囲にあるが、さすがに整理がしづらく、どこに何があるかしばしば分からなくなる。

 

 小用は玄関脇の外、大の場合は200m離れた1夏に行かなければならない。話で聞いたときは「まじかよ!?」と思ったものだが、住めば都。室温が高く乾燥しており、雨のない南極では外のトイレも苦にはならない。疲れた頭を冷やすにはちょうどよかったし、多くの人が集まる1夏よりも落ち着いた環境で仕事ができた。昭和基地は無線LANも完備している。ウェブは実用的にはどうかというスピードではあったが、メールはほぼ送受信し放題。卒論や修士論文指導、来年度の授業の調整など日本に残した仕事で、毎晩遅くまでメールをしていた。南極にいるのをワスレテしまいそう。

④キャンプ

零下10度のボツヌーテン・テントの中で。
零下10度のボツヌーテン・テントの中で。

 氷河以外の観測活動にもいくつか同行した。さすがに個人テントの余裕がな かったが、悪天候でヘリ飛ばない時にはPCを叩いた。内陸の標高1400mボツヌー テン麓のキャンプではさすがに指が凍えた。寝袋に半分PCを包みながらのタイピ ングしたり、必要なことはメモ帳にメモり、後で打ち込むなんてこともした。PC 自体に不具合はなかったが、この環境だとPCを使って仕事をするのは、ちょっと厳しいなあというのが実感。

31. 地図に残る仕事

インステクレパネ、雪渓上でキャンプを張る。
インステクレパネ、雪渓上でキャンプを張る。

 強風になるとヘリが飛ばない南極では、出発前に作った活動計画など、ほとんど意味を持たない。野外調査に使えるヘリは自衛隊の大型ヘリCHが1~2台(常に2台が運用できるわけではない)、観測隊のチャーターしたヘリASが1台だから、悪天候で順延されれば他の野外調査の予定も狂い、場合によっては完全にキャンセルとなる。予定変更で、1月になると、ほとんど野外調査に同行できない日々が続いた。しかもこちらの調査対象は南極の自然ではなく野外調査に出かける観測隊員なので、主体的にヘリの日程調整に動くことができない。元々はどちらも行くはずだった調査のAとBが同じ日程でバッティングしてしまい、やむなくどちらかを削るという羽目にもなった。

 

 全体のスケジュール消化率からして、同行の予定が2~3割減になることはやむをえない。だが問題は、どれを削るかだ。13.で紹介した地理院の支援は、個人的にも重要視していたが、露岩を移動するから調査対象としても好ましい。なんとかこれを死守せねば・・・。

 

 

 結果的に当初予定されていたオメガ岬+竜宮岬は、距離の関係でオメガ岬のみの実施となったが、前回のブログで紹介したインステクレパネの支援にも参加することができた。特にインステクレパネは、地形図の空白地帯。まさに「剱岳-点の記」である。

 

 昭和基地を中心に北東と南の海岸には、夏期間はある程度の面積の岩石地が露出している露岩帯がある。南側のいくつかの海岸は比較的面積が大きく、特にペンギンや地質調査がよく行われるラングホブデは数km四方の大きさがある。一方、北東海岸には多くの露岩帯があるが、そのほとんどは1kmにも満たない小さなものばかりである。1月16日から2泊3日で出かけたオメガ岬も、1km程度の

小さな露岩帯と氷河の末端のモレーンの集合体であり、よく見ると、モレーンはΩの形をしている。

 

 オメガ岬では、既存の基準点のGPS測量とともに、基準点の設置と対空標識の設置をお手伝いした。GPS機器や機器設置のための三脚はいずれもかなり重い。それを背負って、地理院の技師の方と一緒の露岩を歩くと、限りなく長次郎(柴崎芳太郎の山案内人)気分だ。予め地図で決めた場所にいければ、そこに基準点を設置する。南極は基本的に岩場なので、岩にドリルで穴を開けて基準点標識をねじ止めして、セメントで固定する形になる。地図ファンとしては花崗岩の三角点石柱を埋めたいところだが、3人の測量隊には難しい。

 

 基準点標識を設置すると、技師の方は三脚を立ててGPS測量を行う。精度を出すために、場合によっては丸1日、短くても2時間ほど測位を継続する。対空標識を設置する場合には、その間に1×2mの長方形3枚を120度づつ方向を変えて基準点の周りに描く。曲尺がないので、岩の上にきれいに長方形を描くのがけっこう大変なのだ。ペンキ塗り用のオーバーウェアや手袋は支給してくれるのだが、風が吹くと、ペンキが飛び散って、トレッキングシューズやインナーグローブにも付着する。挙句の果てに、顔にも付く始末。過酷な自然に耐えるペンキだけに、一度付着するとなかなか取れない。対空標識の設置がない場合には、GPS測位の2時間はフリータイムとなる。暖かいなら昼寝タイム、風があるなら、寒いのでトレーニングタイムとなる。

 

 天候によって活動が左右される南極での野外調査は、時間に余裕を持って組まれている。だから順調に進めばかなりゆとりがある。往路では、岩がごろごろした場所に着陸してくれた自衛隊のCHのために、余暇時間にヘリポートの整備も行う。といっても人力だから、数十kgもあるような石を掘り起こしたり、スコップをてこ代わりにして動かしたりする。ヘリの中はローターの音が常に大音響で鳴り響いているので、基本的に乗員はほとんど何もしゃべらずに過ごすが、復路ではごついヘルメットを被った機内クルーが、「ありがとうございました。大変だったんじゃないですか」と、わざわざ声をかけてくれた。

 

 

 1月下旬に訪れたインステクレパネは、白瀬氷河の奥に位置し、平らな露岩がほとんどない。自衛隊のCHは着陸不能と結論したので、観測隊の小さなヘリASで出かけた。それでも結局露岩に着陸可能場所を見つけることはできず、氷化した雪渓の上に着陸、雪渓上にテントを張ることとなった。この日は風が強く、対空標識設置はオメガ岬よりも一段と大変だったが、それでも二日間で、基準点2つを設、対空標識を1点設置した。GPS測量中は、断崖の上から白瀬氷河を望み、コーヒーブレイク。なんとも贅沢な時間を過ごした。

 

 この露岩の地形図が世に出るのはいつのことになるだろうか?そして一体何人の人が使うだろうか。限られた利用者だろうと、国土に準じた地域管理の仕事を地道に続ける地理院とその技師の方に敬意を表するとともに、そこにささやかながらも関われたことを、地図好きの一人として名誉に思った(なお、今回の地理院同行の様子は、エイ出版のフリーペーパー「フィールドライフ2018年春号」に

も寄稿しました)。

 

 

オメガ岬、対空標識設置前と設置後。ちなみに塗料は南極専用のエコ塗料だとか。


30. ソフトインフラ

地理院の支援で行ったインステクレパネにて。右が高村さん。
地理院の支援で行ったインステクレパネにて。右が高村さん。

 阪神淡路大震災や東日本大震災時で日常生活を支えるライフラインが途絶すると、普段の生活がそれらに如何に依存したものかを思い知らされる。ガスや水道、電気がなければ、数日間の生活さえ困難になる。そんな環境でアウトドア用品が役立つことが指摘されたが、山岳ガイドやアウトドア関係者も、被災地の支援やその基盤づくりに活躍した。今回59次隊に参加した山岳ガイドの高村さんもその一人だった。「(ガイドとして)こんな活動の仕方もあるのだな」と気づいた高村さんは、その後フィリピンの水害に対する医療関係者を支援したりもした。その延長線上に、今回の南極観測隊参加があるという。

 

 南極観測隊には大きく分けて観測と設営部門がある。設営部門とは過酷な自然環境の中での観測の仕事の基盤を作ったり維持したりする活動であり、27.で紹介した建築もそのひとつだ。だが、観測の現場は昭和基地ばかりではない。越冬中の野外調査に出向くには、オングル島から海氷の上をスノーモビルや雪上車で渡っていかなければならない。海氷は、冬になれば基本的には堅固だが、潮汐によってできるクラックがあり、落ちれば大惨事を招く。あるいは大陸に上がれば、氷床の縁にはクレバスが発達し、そこを避けたり、もしもの場合のリスク管理、対応スキルが求められる。クレバスでは複数の惨事が発生している。さすがにそこに橋をかけたり、堅固は舗装道路を作ることはできないから、一回一回安全なルートを探し、旗ざおなどでマーキングするというスキルが必要になる。

 

 夏期間には、昭和基地周辺の露岩地帯では多くの野外調査活動が行われる。それらの重要な拠点には、基地とはいえないまでも、小屋が設置されている。水道やトイレの設備も簡易だから、日本の山の基準で言えば、小さな避難小屋といった趣であるが、それでも恒常的な建物がある安心感はある。一方で、こうした小屋さえない場所での調査活動もある。何度か同行した地理院なども、基準点設置や維持は広範囲に行われる。しかもGPS測量は日帰ではできないから、活動場所はテント泊となる。そこでも、生活を維持し、時には過酷な天候に耐えるスキルも必要になる。

 

 これらは必ずしも生死に関わるレベルではないが、ハードな登山などの経験の全くない大学院生や若い研究者も増えてきたことから、自然の中での活動の準備の支援をする観測隊員であるフィールドアシスタント(略称FA)が、位置づけられるようになった。過去には山岳記事に執筆で有名な阿部幹雄さんやプロスキーヤーの佐々木大輔さんなどもFAとして参加し、観測隊の活動を手助けした。

 

 できるだけリスクの高い野外調査に同行したかった僕は南極滞在中の冒頭に氷河掘削チーム(26.参照)に約1週間お世話になった。彼らは、これまで日本の南極観測で大きな事故につながっているクレバスがある場所での活動をするだけに、今次の活動の中でもリスクの高い調査であり、FAの支援を必要としていた。結果的にも高村さんと一緒に活動する長い時間を得ることになった。

 

 高村さんは、クレバスがあるかもしれない氷河での活動を支援するだけでなく、時には観測活動で疲れきった氷河掘削チームに、限られた炊事道具と食料で滋味豊かな「お袋の味」を提供した。あるいは、調査終了後の3t近い調査用具の輸送の問題解決に対しても、文字通り奔走した。

 

 過酷で手付かずの自然の中での調査や生活、そして生命を守るスペシャリスト、それがFAなのだが、それは山岳ガイドのコア・コンピテンシーでもあるのではないか?それが、テント生活の夜に高村さんと何度となく議論をした結論でもあった。国家資格化を目指している山岳ガイドの職業としての確立は厳しいものがある。過酷な自然の中で生活と生命を守るという山岳ガイドのコア・コンピテンシーは、その職業としての確立に寄与すると同時に、職業としての地位を高めるのに貢献するのではないだろうか。

29. 8月30日

待ちに待った夏休み。40日間の夏休みは子どもにとってのパラダイスだ(今はそうでもないかも・・・)。でも、前半が終わると時間の進み方が早くなる。まだ半分と思っていたのに、楽しい日々は怒涛の勢いですぎていく。そして8月30日!宿題が・・・。そんな子どものころの日々を思い出すここ数日。

 

 2月5日まで昭和に残留希望を出したのだが、諸々の条件のため2月1日、越冬交代式後にしらせ帰艦が決まった。もうあさっての昼には、昭和基地とはバイバイなのだ。ミスもした。あの時、このチームへの同行を希望すればよかった。そういう後悔ももちろんある。半分予想したこととは言え、リスクの現場でリスクについてコメントを求めるという研究方法の難しさも実感した。一方で、発見もあった。ほのかに予想はしたが、予想以上に興味深いリスクの切羽を見ることもできた。

 

 やり遂げた感は全くない。研究者だから、研究をまとめ、論文にして初めてやり遂げた感が沸いてくるのだろう。新たな分野の探索的研究だから、言ってみれば、地学の研究者が「未知の大陸でとにかく石を拾ってきた」、に近い状態である。「珍しい石だ」くらいの実感はある。拾ってきた石を文脈の中で再構成するとき、何かが見えてくるかもしれない。それは帰路のしらせのお楽しみである。

(まだ伝え切れていない昭和・その周辺でのお話は、しらせに乗ってから、ゆっくりご報告します)。

 

写真:インステクレパネ「白瀬氷河最奥、男の隠れ家的露岩で、基準点測量の支援」


28. 緊急特集密着取材!当直の仕事を通して昭和基地の夏生活を知る

ションポリの片付け:二つあるポリを一つにまとめた後はリアカーで汚水槽まで運ぶ。
ションポリの片付け:二つあるポリを一つにまとめた後はリアカーで汚水槽まで運ぶ。

 昭和基地には夏期間の間だけ、新しい越冬隊と夏隊によって人口が約3倍になる。彼らが入るのが二棟の夏宿舎である。昭和基地としてよく写真などにも出るのは管理棟+居住棟で、越冬隊員が生活している。こちらをスイス風シャレーとするなら、1夏は山小屋。2夏は水もない避難小屋というところか。

 

1、2合わせて夏宿舎には60人近い人が暮らすので、生活の維持にはそれなりに手間が掛かる。調理は調理担当の隊員としらせからの支援の調理員によってまかなわれ、最終的なごみの処理などは環境保全の隊員の仕事となるが、それ以外の雑多な仕事は交代で務める当直が請け負う。60人の生活を支える、それなりのボリュームのある汚れ仕事である。仕事は多岐にわたる。リスト化されているが、具体的な進め方までは完全に記述できないので、2人で1日づつずらして交代して引き継いでいく。

 

皿洗い。朝は使われる食器が少ないので余裕だが、昼食、夕食は慌ただしい。
皿洗い。朝は使われる食器が少ないので余裕だが、昼食、夕食は慌ただしい。

 朝最初の仕事は、朝食の皿洗いである。6:45に始まる朝食時間の最初にそそくさと食べ終え、皿洗いに入る。いつも朝食の遅い僕は、こんなにも朝食のおかずの品目があったのかと驚いた。食事の片付けの大変さはみなよく分かっている。お椀二つにご飯と味噌汁を盛って、おかずはご飯の上に載せる賄い飯スタイルで食べてくれるので、一人あたり2椀と箸を洗うだけである。拭き取りと拭き取った食器を所定の位置に戻すのは食べ終えた隊員が順番に手伝ってくれる。自分の食器を台所に出したら、拭き取り係になり、次の隊員が来たら交代する。機械的なルールなので、時には一枚も拭かずに「交代!」と要求されることもあるし、自分の後ろすぐに食べ終える人がいないとひたすら食器を拭き続ける羽目になる。

 

 

 

 台所回りの片付けをしているうちに、7:40から朝礼が始まる。ラジオ体操の後、各部署の仕事の紹介とKY(想定される危険と対応の報告)がある。建築や環境保全などの設営活動がメインだが、観測・研究の準備などが日々行われている。当直はそこで昼食のメニューを発表する。この時はなぜか拍手が起きる。作業現場では昼食は楽しみなのだ。僕が当直の日はなんと「松茸ご飯」。加えて魚と麻婆も付く。もちろん大拍手。

 

 その後1夏と2夏の掃除に1時間くらい掛かる。居室は居住者の義務なので、基本的には食堂とラウンジ、廊下を電気掃除機できれいにし、ごみをまとめる程度。1夏にはじめて入った時、外観のぼろさに比べて中が意外ときれいな印象をうけたが、それはこうやって維持されているのだ。

 

ションポリの片付け:これが2夏のションポリ。通常はここで用を足す。南極では雨はほとんど降らないし、室内は暖かいので、意外と苦にならなかった。二つあるポリを一つにまとめた後はリアカーで汚水槽まで運ぶ。
ションポリの片付け:これが2夏のションポリ。通常はここで用を足す。南極では雨はほとんど降らないし、室内は暖かいので、意外と苦にならなかった。二つあるポリを一つにまとめた後はリアカーで汚水槽まで運ぶ。

 メインイベントがションポリの片付け。ションボリではない。ション便のポリタンクの略「ションポリ」である。2夏には上下水がない。従ってトイレも屋内には緊急用しかなく、通常は小は屋外のトイレでする。下水がないので、出したものはポリタンクにたまる。これを1日に一回片付けるのが当直の重要な仕事である(写真参照)。ションポリをリヤカーで運ぶとしょんぼりな気分になる。通常は「上水」代わりの真水のポリタンクも運ぶのだが、この日は消費量が少なくてなし。ションポリとは一緒に運べないので、もしあれば二往復となる。ここまでやって午前中の仕事は終了。昼食まで1時間はフリーの時間となる。

 

 

 昼食も夕食も台所回りのルーティンは変わらないが、おかずの種類が増えるので、皿洗いはかなり大変になる。特に僕が当直をした初日はハンバーグにカレースープ、おまけに納豆がついていた。いずれも狭くて水を節約する必要のある1夏ではやっかいな洗い物である。当直を二日続けると、皿洗いの観点でメニューを評価するくせが付く。

 

 夕食後1930にミーティングがある。その司会と記録も当直の役割だ。隊長のお話はないことも多いが、時には担当者からの「お小言」もある。年齢も価値観も多様な大人が一緒に生活するのだ。リスクの過酷さも日本とは異なり、甘くみれば対応不可能なダメージにつながることもある。たとえば、昭和基地では屋外の行動ではヘルメット着用がルールだが、ヘルメットがなければ致命傷になりかねない事態も時々発生する。経験者ほどそのことを痛感しているので、敢えて嫌われ役になる。

 

夕食後にゴミを片付ける。内容は普通の家庭と大きくは変わらないが、やはり60人以上が生活しているので、50kgrにもなる(多分この日は段ボールがエキストラで出た分が大きい)。缶はしらせで日本に持ち帰る。そのままでは赤道通過時に腐敗するので、中を洗浄する。ここまでは飲んだ人の義務である。一応弁別されている洗浄後の缶を缶つぶし機でつぶす。可燃物、不燃物、プラ、段ボール、生ゴミ、アルミ缶、鉄缶に分かれたゴミを処理棟に運んで当直の仕事は終わる。

缶つぶし機で、アルミとスチールに分けた缶をつぶす
缶つぶし機で、アルミとスチールに分けた缶をつぶす
弁別したゴミは、処理棟に運ぶ。種類ごとに重量を量って、終了。
弁別したゴミは、処理棟に運ぶ。種類ごとに重量を量って、終了。
仕事の充実感で一日が終わる(初日に一緒に仕事をした「先輩」の渡邉さんと)
仕事の充実感で一日が終わる(初日に一緒に仕事をした「先輩」の渡邉さんと)

誕生日を迎えた若者をケーキとバースデーソングの斉唱で祝う。
誕生日を迎えた若者をケーキとバースデーソングの斉唱で祝う。

 昭和基地の生活の全貌を知ることのできる貴重な機会である。ささやかではあるが「社会貢献」の喜びもある。これまで、ほとんど言葉を交わしたことのない人ともしゃべるチャンスにもなる。仕事をすれば、「ああ、この人こんな人だったんだな」という理解も進む。

 

 二日目も同じルーティンが繰り返しとなるが、24日はサプライズがあった。誕生日の若者がいたのだ。夜のミーティングの「その他」の項で発表して、お祝いした。調理隊員がケーキを用意してくれた。

 

 

 

追伸:終わったと思った当直だが、ヘリによる野外調査がキャンセルになり、再度務めることになった。

27. ハードインフラ

砂をバケツに汲む仕事を支援。一ドラムにバケツ27杯の砂、セメント 缶、水を入れる。このドラムを1日に20回回した。砂の中には、礫が混じっており、「この程度の大きさまでは許容」と指示を受けるが、正直なところ大きな礫が完全に取り除かれているかどうかは自信がない。大学のコンクリート工学の授業で、「理論はこうだが、現場ではなかなかそのとおりの施工管理は難しく、それがコンクリートの強度低下の原因となる」と習ったのを思い出した。こんな歳になってそれが実感できるとは思わなかった。
砂をバケツに汲む仕事を支援。一ドラムにバケツ27杯の砂、セメント 缶、水を入れる。このドラムを1日に20回回した。砂の中には、礫が混じっており、「この程度の大きさまでは許容」と指示を受けるが、正直なところ大きな礫が完全に取り除かれているかどうかは自信がない。大学のコンクリート工学の授業で、「理論はこうだが、現場ではなかなかそのとおりの施工管理は難しく、それがコンクリートの強度低下の原因となる」と習ったのを思い出した。こんな歳になってそれが実感できるとは思わなかった。

 

 僕が長い時間お世話になった氷河チームは、過去にほとんど人が入っていない自然の中にキャンプを設営し、野外生活をしながら調査を継続している。南極観測隊というとみんながそんな生活をしているように思わっている人も少なくない。しかし、実は現在の南極観測ではそのような調査スタイルは少数派である。隕石発見で業績を上げたセルロンダーネ石調査隊は約3ヶ月間、南極でキャンプ生活をする。過去にはガイドや著作でも有名な阿部幹雄さんやプロスキーヤーの佐々木大輔さんがフィールドアシスタントをしている。もちろんその期間、風呂には入れないし、食料のほとんどもフリーズドライで軽量化を図っている。ブリザード中に建物に避難することもできないので、スノーモビルが転がったり、テントが崩壊するといった危機的状況も経験している。

 

 現在の昭和基地はそれらとはかなり違った環境である。発電機が止まらない限り基地内は暖房で暖かいし、越冬隊員には個室が与えられ、風呂や日常的な食事はもちろんネット環境も提供されている。20世紀初頭の冒険ならともかく、1年にわたる研究・観測活動は、そうでなければ成り立たないだろう。

 

足場作業。ご覧のとおり外壁がかなり傷んでいるので、その張替えのために足場を組んだ。素人が大人数でなれない作業を行う。しかも足場は比較的重いものを扱い、高所作業もある。リスクマネジメント的には、野外調査に負けず劣らず注意が必要な現場だ。
足場作業。ご覧のとおり外壁がかなり傷んでいるので、その張替えのために足場を組んだ。素人が大人数でなれない作業を行う。しかも足場は比較的重いものを扱い、高所作業もある。リスクマネジメント的には、野外調査に負けず劣らず注意が必要な現場だ。

 環境が整っているということは、それを整備した人がいるということだ。これを南極観測隊では設営(logistics)と呼んでいる。電気や機械の維持、通信インフラ、車両等の整備もそうだが、時間的に多くが投入されるのは基地の建物の新設や保守である。なにしろ昭和基地には大小交えれば70棟以上の建物がある。その保守は常時必要だし、古くなれば立て替えが、観測計画が新規に発生すれば新設が行われる。日本なら資金さえあれば建設業者に頼めば済む。だが、昭和基地には基本的に観測隊員(と同行者)しかいない。つまりは自分たちで作るしかないのだ。

 

 もちろん素人にそんな建物が作れる訳もない。現場監督クラスの建築系の専門家が毎年数人観測隊に参加し、その指示のもとに私たち素人が働く。しかも、それらは屋外作業が可能で、比較的人手がある夏期間(12月後半から1月末)の短期に完遂しなければならない。

 夏期間の過酷さは、観測隊に参加した多くの人が語る。居住環境もさることながら、その大きな要因は設営活動にある。プレハブ化されているとは言え、ごく普通の建物を作るのだ。足場づくりもあれば、生コンづくりもある。それを建築のことを知らない素人が手伝うのだから、それだけでも精神的にはかなり堪える。

 

 実際には、何も知らない素人に丁寧に根気強く指示を出し、作業環境に配慮してくれる。考えてみれば、彼らが日常的に相手にしている作業員だって現代の若者が多数を占めるのだから、イメージの世界の工事現場の親方のように怒鳴っていたら働き手がいなくなってしまうことなど、先刻承知の上だろう。工事用のボンタンズボンと作業着に身を包み、南極では必須のサングラスをかけた建築系設営隊員はとっても怖そうに見えて、はじめて参加した日は「ばかやろうー、何やってんだ~!」って怒鳴られないかとびくびくした。でも、建設系の設営隊員も、ずぶの素人が手下では、随分心もとない思いをしていたことだろう。

 

 

生コンづくりの現場
生コンづくりの現場

 昭和でも実験をしていた僕が設営活動を支援した日数は限られていたが、足場組みや生コンづくりなどを手伝った。南極にこなければ絶対できない経験である。生コンプラントでは砂をバケツにくむ係を担当した。5人で立ち替わりながら、スコップで540杯のバケツに砂をくむ。医療隊員(医者)は、仕事がないほど好ましいので、設営の主たる任務を兼任することになっている。例年日本で研修を受けてきて、生コンプラントの主任としてプラントの監督をした。過去に参加したドクターの方と飲んだ時には、「日本で生コンが作れる医者は滅多にいない」と威張っていた。生コン作業をした大学教授もそう多くはないはずだ。

 ささやかなお手伝いだが、「地図に残る仕事」に関わった達成感は高い。特に生コンのように作業手順が明確で、目的もはっきり分かる仕事はやりがいがある。一方で環境保全(ごみひろい)のように、成果が見えにくい仕事は特に寒い日だと疲労が募る。こうした作業があるからこそ、過酷な環境の下での研究・観測活動が成り立つ。

 

(インフラといえば、今回紹介したようなハードなインフラが思い浮かぶ。しかし、観測を支えるのはそれだけではない。自然の中での生活にはソフトな面でのインフラも必要だ。次回はそれを支えるFA隊員について紹介したい)。

26. ファイブスター

右からホースを繰り出し、左でウィンチで穴に落としていく。中央の滑車で繰り出し距離を読んでいる。約300m掘りぬく。右の黒いホースは熱水が通っているので、その周囲はぽかぽかして睡魔を誘う。
右からホースを繰り出し、左でウィンチで穴に落としていく。中央の滑車で繰り出し距離を読んでいる。約300m掘りぬく。右の黒いホースは熱水が通っているので、その周囲はぽかぽかして睡魔を誘う。

 年末の悪天候やブリザードによるヘリ輸送のキャンセルで、野外で調査するチームの行動予定は、予測不可能なほどに変更になった。僕の研究は研究者たちの過酷な環境でのリスク認知なので、基本的にはどこかの野外調査チームに同行し、その様子を記録したりインタビューする。従って、野外調査チームの予定が変更になれば、こちらの調査対象も強制的に変更となる。

 次はいつ野外調査に同行できるだろう?そろそろ心配になってきたころに、木津隊長から「氷河チームの支援に入ってくれませんか?」という打診が来た。氷河チームの人手不足は気になっていた、他のチームに比べてリスクの高い作業をしていることは間違いない。断る選択肢はない。氷河の上でのキャンプ生活も願ってもない経験だ。

 

 キャンプに降り立つと、箕輪さんが「お帰りなさい」と迎えてくれた。その後、必要な物資が輸送され、一ヶ月以上にわたる調査にふさわしいベースキャンプができていた。食事テントはノースのドーム8で、支援の3人を入れた7人が机を囲んで椅子に座っても十分食事できる。長期キャンプなので、基本的にはチームメンバー一人にひとつづつテントが与えられている。シングルルームにゆとりのダイニング。未明(2時ごろ)から明るいのはたまに傷だが、お日様さえ照っていれば、暖房が効きすぎた部屋のようなテントの中で朝を迎える。一日の仕事を終えてドーム8の中のアウトドア用の椅子に寛ぐと、窓ごしに氷河が見える。スイスの氷河脇に建つリゾートホテルにバカンスに来ているみたい。

 

 一緒に支援に入ったFAの高村隊員は、普段は山岳ガイドをしており、山行時の食事づくりには定評がある。高村シェフが腕を振るったワイルドだが懐かしい味付けの料理をたっぷり食べて、夕食後は団欒の時間を楽しみ、時には科学やリスクの話で盛り上がる。こんな贅沢な時間ってあるだろうか?昭和基地にある二つの夏宿舎は、揶揄気味にレークサイドホテルとエアポートホテルと呼ばれる。これらがビジネスホテルなら、氷河掘削チームのキャンプは文句なくファイブスターだ。なにしろ熱水掘削なので、得られるお湯を使って熱いシャワーを浴びるチャンスも時折ある。シャワーがない日だって、清らかな(そして0度の)氷河上の流れで体をすっきりできる。

 

このチームの研究を一言で言えば、「氷河に穴を開けて、内部やその下の海水の様子を把握する」である。それで氷河のことは分かるだろうが、素人的には「どんな意義があるの?」と思ってしまう。それについては氷河掘削チームのチーフ杉山さんがしらせ大学で丁寧に講義してくれた。南極の氷は海水以外の真水のかなりの部分を占める。しかも、それが溶けると約60mほどの海水面の上昇がある。それほど重要な水圏の構成要素なのに、実は南極の氷と海水の相互作用はよく分かっていない。氷河やその下の海水を把握することは南極の氷と海水の相互作用を把握することにつながり、地球規模の気候に影響する海水の挙動を明らかにするという壮大な研究プロジェクトの一部なのだ。このプロジェクトは南極観測の重点サブテーマになっている(素人の理解なので、不正確な部分があったらごめんなさい)。

 

 だから穴を掘る。やることは直径40cm深さ300-400m程度の穴を掘るという単純作業だ。だが、データを得るためには様々なハードルがある。80度程度の熱水を細いパイプと鉄管を氷に沈めながら、穴を掘る。1分間に数十センチというスピードで6~8時間(実際には1本目に掘ったときには12時間くらいかかったらしい)。その間、なんと手動でウィンチを回しパイプを降ろしていく。暇な作業に見えるが、パイプが絡まないようにさばいたり、何かあったときにはすぐ対応できるよう緊張感が欠かせない。

 

 

天気がよいとピクニック気分だが、不慮のトラブルに備えてどこか緊張している。
天気がよいとピクニック気分だが、不慮のトラブルに備えてどこか緊張している。

 それでも穴掘りは楽な方だ。掘った後はそこに様々な測器を降ろしてデータを取る。しらせの艦内放送で何度も聞いて耳にこびりついてしまった「CTD(深度に伴う電気伝導度(塩分)、温度、水深)」計測。こいつは10mごとにケーブルを止めて計測したり、クリティカルな場所では1mごとにケーブルを止めて計測する。ケーブルの操作は手作業で、ケーブルを持ったメンバーが10mや1m動くことで行う。500mの深さにある海底の堆積物を最終する作業はさらに大変だ。重さが数kgもある槍のような装置をワイヤでつるして海底に突き刺し、堆積物を採取する。ワイヤが絡まないようにするため、人力で250m先まで直線的に氷河上を歩いてワイヤを引き上げ、そして降ろす。採水器は、所定の深さに測器をおろして上からメッセンジャーを投下してその深さの水を採取できる装置だ。メッセンジャーって一体どういうメカニズムになっているのかと聞いたら、単なるおもりなのだ。それが落ちてきてばね仕掛けで水が周囲から隔離される。いずれも先端の自然科学とは思えない超アナログ測定器だ。これらの装置を何度も降ろしては上げを繰り返す。ワイヤーをひっぱりながら歩くと、ボルガの舟歌が頭の中でこだまする。僕の支援のときにはなかった係留系はもっと重いらしい。

 

 一回のデータ収集に1時間近くかかることもある。それで得られるのはたった10gr程度のサンプルだったり、数個のデータ値だったりする。そもそもここにやってくるために多くのリソースと時間が費やされている。一方で、数個のデータや数サンプルがより大きな現象の中に位置づけられることで、大きな意味を与えられることがある。こうした地道なデータ収集の積み重ねがあればこそ、氷河が、そして南極が、そこから地球の理解が進む。そんな自然科学の切羽を間近で見ることができた。

 

 

25. 災害ユートピア

どうみても台風一過の秋晴れ。注意報発令時の朝食時の移動にて
どうみても台風一過の秋晴れ。注意報発令時の朝食時の移動にて

 1960年10月10月、激しいブリザードの中、Y隊員と犬ぞりの点検にでかけた第四次南極観測隊の福島隊員は帰路を見失い、行方不明となった。隊員総出で捜索活動を行ったものの発見することができず、7日後に福島隊員は死亡認定た。その後9次隊の際に遺体が発見された。南極観測隊員唯一の死亡事例である。

 

 南極では30m/sを超える風が吹き続けるブリザードが時折基地を襲う。特に冬期の降雪/積雪時には風によって巻き上げられた雪によって2、3m先すら見えない状態になることもある。そのため、福島隊員の事故を契機に、安全対策として、視程と風速によって外出注意令と外出禁止令が出されるようになった。外出注意令時には、基地主要部の建物がライフロープで結ばれ、外出するときには二人以上で組になって、なおかつ自分の体につなげた命綱からのカラビナをライフロープにかけて移動しなければならない。外出禁止令時には原則として建物間の移動はできない。

 

 対策のおかげで、ブリザードによるリスクは十分にコントロールされたものにはなっているが、そもそもブリザードがどれほどのリスクなのかは、自然環境のリスクを研究するものとしては、ぜひとも経験してみたい。夏である1月の昭和基地での平均ブリザード発生回数は0.5回程度。人並み以上に「嵐を呼ぶ」能力があれば体験できるはずだ。

 

 大晦日ごろから、1月3日前後にブリザードの予報が出た。風速20-30m。そして1月2日の夜8時に外出注意令が出されるという予告が出された。注意令が出されると、基地の主要建物に避難し、人員点呼を取らなければならない。そして、それ以後の外出は必ず事前事後の点呼が必要となる。私たち夏隊は第一夏宿舎(通称:一夏)とそこから250mほど離れた第二夏宿舎(通称二夏)に分宿している。私を含めて約30人の59次観測隊員が寝泊りしているのは二夏である。夕食場所である一夏に集まった後、7:30のミーティングまでは一夏で過ごす。外出注意令まで一夏に待機し、20:00に点呼を取った後、ライフロープを使って二夏に帰ることになった。本来注意令は移動を制限すべき事態なので、やるなら、二夏に戻ってから点呼を各宿舎でとり、無線で確認して注意令を迎えるべきだろう。こういう運用の仕方が、JARE(の安全規則)が形式的だと評価されることがある原因のひとつなのだろう。その是非については、そのうちレビューしたいが、法哲学のフィールド研究の場としても興味深いと思う。

 

 1月2日の夜半から強くなった風は、1月3日の朝には立派な注意令相当の風速になった。朝食は強風の中を一夏に集まって取ることになった。すでに非常食が運びこまれているので、強風の中を無理して一夏にいく必要はないのだが、ここで正論を吐いてもブリザードを経験できないので、黙っていた。朝食後は通常朝礼があるのだが、「今日は作業はなしで、宿舎待機」が簡単に告げられた。

 

 第2夏宿の住民30余人のうち11人が戻ったところで、風速が強まり、9:10に外出禁止令が出てしまった。残り20人は二夏に戻ることはできない。そして私たち11人も水道もない(温水器だけがある)二夏に孤立した。もっとも外出禁止令が出ると、通常は一夏でしかできない大便は二夏の非常用ペール缶トイレが利用できるので、利便性はむしろ向上した。非常食もあるし、部屋は寒くない。なんの不満もない。

 

 外ではブリザードが吹き荒れている。外に出て写真を撮ることはできないが、汚れた窓からではなんだか訳が分からない。おまけに外は晴天なのだ!どうとっても「ブリザード!」という迫力のある映像にならない。

 

 そのうち、二夏の問題が露呈し始めた。建物はブリザード対策で窓のない妻面を北東方向に向けている。妻面にあるボイラの吸気穴から強風が吹き込んでボイラを止めてしまうのだ。機械隊員が何度か修理を試みたが、そのうち諦めたらしく、ボイラが止まった。断熱性に優れた建物はすぐには寒くはならなかったが、ボイラの給水管が壁を抜ける穴から冷気が吹き込んできて、ラウンジの気温が下がってきた。こんなときこそ知恵の出しどころだ。どうせ給水は止まっているのだから、と非常食のダンボールを切ってガムテープで完全に目張り。これで気温の低下はだいぶ抑えることができた。 

ブリザードの余暇に、昭和基地の地形模型を作る。
ブリザードの余暇に、昭和基地の地形模型を作る。

 

次の問題は非常食だった。その一部は非常食とは名ばかりで、実際には過去の次隊があまった即席めんなどを残置したものだ。レトルトご飯も、半年前に期限切れはましなほうで、2/3は1年半か2年半前に賞味期限が切れている。しかも、即席めんは調理器具がないので、食べることができない。温水器しかない状況ではレトルトご飯も戻すことができない。せめてα米でもあれば・・・。ここも年の功の発揮しどころだ。温水器の上に乗せてある程度加熱してみる。温水器のお湯でご飯を戻す、さらに温水器で暖めたカレーをかける。なんとか腹を満たせる程度には調理できた。さらには、おかゆやカップめんに、持参した密封パックのローストチキンをトッピング。気分は限りなく村尾嘉陵だ。

 

 夕方になると寒さは増してきた。若者たちは、窓にもダンボールをはって、扉もガムテープで目張りした。最後には「村越さん、こたつ作りました!(年寄りと)知恵比べです!」、と報告に来た。あまった布団とべにや板でコタツを作り、そこでトランプをはじめていた。年の功に対抗する若者がいる限り日本の将来は明るい。

 

 建物にいる限り、身の安全は保障されているのだ。そして夏のブリザードはそう長くは続くまい。みんな窮状を楽しんでいる!ユーモアがあれば、非常時も乗り切れる。結局外出禁止令は21:50に注意令に変わった。22:00からはいずれにしろ夜間の外出禁止になるので、その間隙に、一夏から2人の住民が帰ってきた。13人の住民で一晩を過ごし、ブリザードによる「災害ユートピア」は終了した。

(なおこのときの悪天候は、のちに視程が悪くなかったのでブリザードとは認定されなかったらしいが、風速は間違いなくブリザード級であった)。

24. 年越し

大晦日の日、荷馬車ならぬ雪上車に惹かれたそりに揺られてしらせに向かう
大晦日の日、荷馬車ならぬ雪上車に惹かれたそりに揺られてしらせに向かう

 昭和基地では、前の隊と新しい隊がともに居住する12月後半から1月いっぱいを夏期間と呼ぶ。夏隊は基本的にはこの期間だけ昭和基地などに滞在するのだが、その生活が過酷だという話は多くの人より聞いていた。何より、日ごろ自分で時間を管理することに慣れている大学の研究者にとって(最近ではそうでもないが)、日課が厳格に決まっており、体調が悪くても、天候が悪くてもその日課に従うことを余儀なくされる生活は精神的にも過酷だ。さらに夏期間の隊員の宿舎(通称「夏宿」)のうち僕の滞在した第二夏宿舎には水がなく、温水器があるのみである。小便は外!の仮設トイレだし、大は300mほど離れた第一夏宿舎にいかないとできない。さすがに居室は二段ベッドで暖房も効いているが、それ以外は山の避難小屋レベルの生活だ。

 

 ラングホブデ氷河から戻って5日ほど生活したところで、珍しく弱気になった。大晦日から元旦にかけてはしらせに戻れるのだが、その時が待ち遠しい。しらせにはトラックの荷台に乗せられ海岸まで行き、そこから雪上車のひくそりに乗せられてしらせに向かう。頭の中で「ドナドナ」が流れる。

 

 年越しの夜のしらせの食事は質素だが「年越しそば」。その後は隊員公室では焼肉パーティーが開かれていた。15時頃にしらせについた時にはぐったりして、一刻も早く寝たいと思っていたのだが、食事の前にしらせのトレーニングジムに行って1時間運動して復活した。どうやら運動不足や精神的な疲れだったようだ。

 

 冬訓練からのつきあいのSさんに誘いで公室の焼肉パーティーに行った。残念ながら行ったときには焼肉はもうなかったのだが、それ以上のご馳走が待っていた。去年58次隊の時から僕の研究のよき理解者だったHさんからは、「村越さんには二つのことをお願いしたい。もちろんひとつは今回の同行の成果をサイエンティフィックな論文にしてほしいということ。もうひとつは外部の人間として、いいことも悪いことも率直に報告してほしいということ」というエールをいただいた。高いリスクの中で活動が長年にわたるほど経験が蓄積されるというメリットがある反面、安全のためのルールは臨機応変になるというよりもむしろ硬直化しがちである。断片的には多くの人がそれを指摘するが、前例踏襲のルール以外に過酷な環境で人を守る代替案が見つけ出されていないことも事実だ。Hさんもそのことに問題意識を持っている。僕のささやかな研究がその代替案を見つけるひとつのきっかけになることを期待しているのだろう。

 

 ある調査チームでの研究計画遂行に関わる安全について深く関わった人が、いつのまにか僕とHさんの周りに集まっていた。Hさんは「それぞれどんなふうに思ったのか、その結果どうしたのかを、ぜひ村越さんに伝えてほしい」と熱弁をふるった。「僕は戦争をしたいとは思わないけど、それが日本の国の力を高めることにつながるから。」彼もまた、現代の日本におけるリスクの扱われ方とその課題、そしてその課題を解くことが科学だけでなく社会を強くする上で重要なことだと考えているのだろう。

 

 熱い会話の最中に新年へのカウントダウンが始まった、日本から遅れること6時間で昭和基地・しらせも2018年を迎えた。新しい年の前夜にふさわしい大御馳走に満たされた大晦日の夜だった。

23. 予定は常に未定。

氷河の予察キャンプとラングホブデ氷河(背後)
氷河の予察キャンプとラングホブデ氷河(背後)
氷河の脇の湖で体を拭く。さすがに暖かいとは言えず、顔がこわばる
氷河の脇の湖で体を拭く。さすがに暖かいとは言えず、顔がこわばる

 南極への到着もその後21-22日の二日間も好天に恵まれた。「夏の時期の南極は暖かい」経験者からそんなことを聞かされて「そんな訳ねえだろ!?」と思っていたが、ほんとだった。風さえ吹かなければ、氷河の脇の池の水でタオルを濡らして裸になって体を拭くのも苦にならない。

 

 24日の午後からは曇り勝ちでやや寒くなったが、若い研究者たちが、「僕のお別れ会」を夕食に開いてくれた。しかもクリスマスイブ。フライパンで焼いたピザにおいしいケーキが南極大陸で食べられるとは!気候も温暖。食事もテント生活も楽しい。危うく南極の自然をなめかけていた。

 

 ところがその後、天候はさらに悪いほうに向かった。といっても、天気自体は曇りから時々小雪がぱらつく程度。一方で、風速は5-10m/s、時々15m/s。こうなると途端に寒くなる。それでも所詮夏なので、気温や耐寒温度はせいぜい日本の真冬のスキー場程度。だが、その中でキャンプ生活をし、さらには寒風の中、精密な測量を行ったり、記録を整理するという知的な生活をすることを考えてみてほしい。

 

 天候の影響は輸送にさらに大きく響く。南極観測の夏期間の間、頼りになるのはしらせ搭載の自衛隊のヘリ2機と観測隊がチャーターした小型ヘリ1機。強風が吹くと、これらのヘリが飛べなくなる。僕の昭和帰還予定の25日は、ラングホブデの風速は4.8m/s。それほどではないが、大陸からの風の吹きさらしの位置にある昭和では、かなりの風が吹いていた。そのため、朝の時点でヘリ飛行の判断は保留。その後30分遅れの連絡が入ったので、荷物を片付けテントで待機した。でも、風で煽られるテントの音を聞いていると、今日は戻れないかもと思う。

 

 しばらくして予定より少し早めにヘリの爆音がした。飛行コースからみてスカーレン(昭和からより遠い露岩)にいく便のようだ。この次だ。そう思って待っていると、研究者の一人箕輪君が「残念なお知らせ」と言って、その後のヘリがキャンセルになったことを告げに来た。天気予報で今日一日は風が強い。もともとヘリの運行は1日早く進んでいる。「無理せずやろう」という心理が働いたのかもしれない。昼過ぎまで、これまでのヒアリング記録を聞き直し、1時間以上爆睡し、昼食。その後も待機となって結局飛べなかったが、日常では決して得られない、自分ではどうすることもできない時間に浸る余裕はあった。

 

 その日の夕食は僕のお別れ会第二弾となってしまった。翌日は9:00予定のヘリを待つも、天候調査で再び待機となった。荷物を全部片付けてしまったので、食事テントで待機する。昨日は炊飯の水が少なめでシンありご飯をたっぷり作ってしまった。徒然にチャーハンを作った。子どものころ日曜日で母不在のとき、父はチャーハンをよく作ってくれた。父はそれ以外の料理を作らなかったが、チャーハンは子ども心においしいと思った。南極でチャーハンを作りながら、そんなことを思い出した。

 

 その後、14時の飛行予定も保留になった。たぶん今日もだめだろう。この風で飛ばないとなれば、今後も高い確率でヘリはキャンセルになってしまう。ヘリ以外の方法で昭和やしらせに帰れない南極では容易に孤立してしまうのだ。その過酷さの一端を痛感した。

 15時の連絡で16時発決定の連絡があった。僕自身の帰還はともかく、彼らのもとに発電機や追加の観測機材が運ばれてくることにはほっとした(実際には僕を迎えにきたヘリで届いたのは最低限の観測機材と発電機で、彼らは本格的な活動のための資材を、もう数日待たなければならなかった)。たった数日だったけれど、充実した数日をありがとう!「よい研究成果を!」そういって握手をして彼らと別れた。

日がかげると寒い。カップめんがうまい!
日がかげると寒い。カップめんがうまい!
南極ではごみはしっかり弁別。日本で処理するぷらごみは赤道での腐敗を避けるため、カップめんの内部もきれいにする。
南極ではごみはしっかり弁別。日本で処理するぷらごみは赤道での腐敗を避けるため、カップめんの内部もきれいにする。

22. 南極大陸上陸:氷河チーム

ランブホブデにて。コウイチローとともに
ランブホブデにて。コウイチローとともに

  しらせが順調に航海したので、ヘリコプターによる輸送が1日づつ繰り上がった。12/20予定より1日早く氷河チームとともにラングホブデの雪鳥沢に飛ぶ。ラングホブデはノルウェー語で長い丸い(なだらか)丘という意味らしい。昭和基地のあるオングル島も含め、この辺りの地名の多くはノルウェー語だ。

 雪鳥沢は、いかにも雪と氷に覆われていそうな名前だが、夏の間は岩や砂が露出している。こうした露岩地帯が、昭和基地の東と南西の沿岸部に広がっている。氷食によってできたフィヨルドを思わせる丘や海岸沿いの露岩は、南極というよりも早春にノルウェーに来たようだ。はじめて探検したノルウェー人たちも、懐かさを感じたことだろう(8.ノルウェー人の心のふるさと、参照)。

 

雪鳥沢の小屋での夕食風景
雪鳥沢の小屋での夕食風景

雪鳥沢には観測のための小さな小屋がある。氷河チームと地理院・海保連合チームとともに、この小屋で一晩を過ごした。山岳会がプライベートで作った山小屋を思わせるその小屋は、狭いながらも台所も食卓も、4人が眠れるベッドもある。少人数の調査チームで焼き肉をし、アルコールを飲み、発電機の音を聞いていると、日本の山小屋にいるかのような錯覚に陥る。暖房もあるので室温は18度。暑すぎるくらいだ。この日は人数の関係で、外にテント泊したが、揺れないし、夜中に船倉の扉を開ける音もない。極楽のようだ。

 

20時から、昭和基地/しらせと各地の調査チームとの定時連絡が始まる。人員装備とも異常なし、ばかりの調査チームの中で、ある調査チームでは輸送上のちょっとしたトラブルがあった。この「事件」は数日後のリラックスタイムの格好の通信ネタになった。失敗を笑い飛ばすユーモアがなければ、ここではやっていけない。

 

 20日からはフィールドアシスタント(FA)の高村隊員と悪天候時用の退避ルートの偵察やGPS測量のために露岩を移動する調査チームと一緒に歩いた。久し振りの陸上の移動は気持ちよく、地形図を見ながら、地形を同定する作業も楽しい。等高線は万国共通だが、同じ等高線でもそれが表現する地形の様子は決して日本と同じではない。おまけに地形のスケールと肌理が分からないと、遠くに見える斜面が絶壁なのか通れる場所なのかも分からない。歩きながら自分の認識を調整していく作業が、地図読みの楽しさを倍増させてくれた。

 

 

 氷河チームはこれから約40日間、この場所で氷河に熱水ドリルで穴を開けてその状態を観測する。穴を掘って氷河の中を調べる。原理はシンプルだが、そのために彼らは日々様々なフィールドワークをしている。そして夕食の時間には調査の内容は目的について詳しく話してくれる。自然科学の面白さとその面白さを引き出すための大変さ、その両方をここでは垣間見ることができる。

21. 大陸へ

定着氷に入り500mほどのところで停船中のしらせ。海氷の上でペンギンが遊んでいる。船は珍しいので見に来るのだそうだ。
定着氷に入り500mほどのところで停船中のしらせ。海氷の上でペンギンが遊んでいる。船は珍しいので見に来るのだそうだ。

 暴風雨圏での揺れは、比較的穏やかだったという。その後、前進後退を繰り返して氷を割るラミングも、多い年では数千回にもなるのに25回に留まった。しらせは順調に航海を続け、12月16日に大陸からの氷続きの場所である定着氷に辺縁に到着した。

 

定着氷を500mくらい入ったところでしらせは停船。昭和基地に物資を運んだり、野外調査に入る観測隊員を乗せるヘリのブレードの組み立てなどの輸送の準備に入った。船が動いていないので、艦内の乗員もややリラックスモード。しらせ乗員と観測隊員との懇親会やしらせならではのイベントである耐寒訓練(ほぼ素っぱだかのかっこで甲板を一周する!)が行われた。

 

観測隊のほうは、船倉にごっそり積み込まれた荷物や食料を再度各調査チームに分けたりと、準備が慌しくなる。食料はしらせから一括して観測隊に渡される。それを調査人日で按分して配布するのだが、1300日人の食料+非常食を配布するので、80人以上が座れる隊員公室の机の上に食料がところ狭しと積まれる。それを各チームの責任者が、食料リストに記載されているとおり、ひとつひとつ探して確保する。21世紀とは思えない超アナログ的な方法だが、物流の末端では結局こういう作業がなくならないのだろう。

 

この後観測隊員はヘリで昭和基地に運ばれるが、直接野外調査に入る隊員もいる。中には、そのまま40日ほど氷河上で生活する調査チームもある。こういうチームメンバーは、昭和基地ではほとんど生活しないのだ。

 

僕は研究テーマ上(過酷な環境でのリスク認知)、できるだけリスクの高い調査チームに同行する計画を作成したので、しょっ端はこの氷河チームと行動をともにする。その後は昭和基地に入ったり、他の野外観測への同行を繰り返す。昭和基地では、短い夏の間に越冬に向けた建設作業や機械の整備が行われる過酷な夏作業の時期が待っているが、野外に出る研究者たちも限られた期間で予定とおりの調査を進めるために、過密なスケジュールをこなすが、その合間に設営作業を手伝ったりする。

 

いよいよ明日は南極大陸に上陸する。

20. 氷海航行×艦上体育

 朝飯を抜いて朝寝していると、艦橋からの放送が、昭和基地から240マイルの流氷域の辺縁に到着したことを告げる。午後は、野外調査旅行チームへの食料配布でほぼつぶれるので、時間に余裕のある午前中に走ることにした。

 

 気温はマイナス3度。氷海に入って以来、航行スピードも落としているので、向かい風もさほど強くない。真冬のヘルシンキの早朝のマイナス25度に比べたら天国のようなコンディションだ。ウィンドシェル機能のあるミッドレイヤーを着れば、ランニング中汗ばむほどだ。

 氷海に入るまでは、走れども走れども変化のない海原が続いていた。1周250mを30分以上走るなら、さすがにIpodがないと精神的に辛かった。しかし氷海に入ると、艦の周りには刻々と変化する「景色」が生まれる。Ipodをポケットに忍ばせていったが、まったく必要がなかった。おまけに、氷海に入ると航行スピードが落ちて、航行も非常にスムースになる。地面を走っているのとほとんど同じ感覚で走ることができる。艦尾から見える船の航跡も、春の小川のようにさらさらと流れていく。せせらぐその音を聞きながら走ると、雪国の訪れつつある春を感じながら川岸を走っているかのようだった。

  

11時が近づくと、それまでのディーゼル臭の中に、カレーの匂いが香る。再び今日は金曜日。チキンカレー+メンチカツのメニューだ。

19. 艦上体育

南氷洋夏景色:どんより曇った空が寒そう。南緯約60度。一路西へ
南氷洋夏景色:どんより曇った空が寒そう。南緯約60度。一路西へ

南極で走れるだろうか?何より往路20日、復路40日というしらせ艦上で体を動かすことができるのだろうか。30年以上にわたりトレーニングを続けてきた僕の最大の懸念はそこにあった。それでも最近は週5日より多く走ることはなくなったし、2日間続けて運動しなくても我慢できるようになった。だが、20日は無理! まして40日など、体も精神もどうにかなってしまう。船の廊下をランジで歩こうか、それとも船倉から艦橋まで階段のぼりをしようか?

 だがそこは長期航海をする自衛隊の艦船だ。保養室という名のジムがあって、 ランニングマシン1台、エアロバイク2台がある。自衛官170余人、観測隊60人 にはちと狭いが、午後早い時間までの自衛官の利用は少ないので、順番待ちで困るほどではない。でも、動揺する艦上でのランニングマシンは結構大変。

 

暖かな日差しの中で艦上球技
暖かな日差しの中で艦上球技

 なによりしらせには、広い後部甲板と両舷に通路がある。外洋に出てからは毎日8:00~日没近くまで「艦上体育を許可する」という放送が流れ、走ったり後部甲板で球技をしている。前にも書いたが甲板は1周約250m。4周すると1km。甲板だけあってやや硬いのが難だが、体育館のギャラリーの走路よりははるかにましだ。30分なら飽きずに走れる。それ以上になるとイヤホンがいるが、音楽を聴きながらなら60分でもへっちゃらだ。偶数日と奇数日でランニングの方向が交互になっている。これも許可放送とともに「今日は反時計回り」と伝えられる。

 

 12月7日には南緯50度、北半球でいえば樺太の緯度だが、天気がよいとほかほかと暖かい。天気のよい日は一度に20人以上が走っていることもある。豪華客船の船旅を楽しみながら海をみてジョギングする気分。中にはボクシングのスパーリングをする自衛官もいる。12月8日からは氷山も見え始めた。今日は、どんより曇り、時おり雪がちらつく中を走った。さすがに走っていたのは5人くらいだった。

18. 南極圏へ

同室の隊員がGPSで南緯55度通過を確認してくれました
同室の隊員がGPSで南緯55度通過を確認してくれました

測地学的には南極圏は66度以南だが、行政的には南緯55度が南極地域と定義されている。その通過は、南極観測隊の公式発表に含まれるほどの項目となっている。12月7日、6時50分過ぎに南緯55度を通過した。これによって自衛隊員や観測隊員の日当も変わるので、あらかじめ決めた日程を守ることが船の運行上最優先される。時にはその手前でジグザグに航海したり、スピードアップしたりすることもあるそうだ。

 私たち同行者に手当てはないが、しらせに納める食費が変わる。朝飯328円、昼食590円、夕食648円の単価が、南緯55度を過ぎると約1.5倍の476円、872円、960円に跳ね上がる。南緯55度までの値段でもこれでもかというくらい食わせてくれるのに、いったいどんな豪華な食事になるのだろう?運動しなくちゃ!

 

 

 出港して1週間が過ぎ、船内の生活も落ち着いてきた。リスクに関するヒアリングを午前中から午後にかけて実施。しらせの上では隊員の多くは暇なので、気軽にヒアリングのお願いに応じてくれる。予め諾の回答をもらっていた隊員のほとんどにヒアリングを行うことができた。

 

 12月5日から大学院生の主宰で夜の映画上映会が始まった。映画好きが持ち寄ったDVDを、毎晩1本づつ、観測隊公室にあるプロジェクターで映写して楽しむ。僕も、近くのファミマのワゴンセールで見つけた「火星の人(邦題:オデッセイ)」を持ち込んだ。暇をもてあましたら自室で見るつもりだったそんな素敵な上映会があるなら提供だ。

 

 「火星の人」は、緊急事態の際に、誤って死亡したものとみなされて火星に取り残された宇宙飛行士が、知恵と科学的知識を駆使して生き延び、最後には救出される物語である。自分の体に刺さったアンテナの破片を自力で摘出し、処置するというブラックジャックばりのシリアスなシーンで始まりながらも、随所にBGMとして流される1980年代ディスコミュージックが、ストーリーと微妙にシンクロしているコメディー映画でもある。過酷な環境で生き延びるには知恵と知識が必要だが、それとともにユーモアも不可欠なのだというメッセージは南極観測隊にふさわしい。アポロ13号の実話で遺憾なく発揮されたアメリカの技術者/科学者の専門性とそれを生かす信念はこの映画のもうひとつのモチーフになっている。今回初参加でいきなり越冬する隣の院生は、どんな思いでこの映画を見ていただろうか?

 

 翌8日のプログラムは「シン・ゴジラ」。自衛隊が「大活躍」し、官僚組織の優柔不断さを皮肉り、省庁統合と官民協力で超自然に立ち向かうストーリーは、やはり南極観測隊が自衛艦上で鑑賞するにふさわしい。二晩続いてナイスプログラムだった。

 

「伝統の海軍カレー」も随分と様変わり。とっても美味しい
「伝統の海軍カレー」も随分と様変わり。とっても美味しい

 この日は金曜日でカレーの日。今日はいかすみ入りカレーで、イカリングやナンもついていた。海軍以来の伝統も随分と現代風になっている。また、今日から3日間、「しらせ牧場」のソフトクリームが開業。昼食と夕食後、ソフトクリームが食べられる。自衛隊員も観測隊員も、みんな子どもの顔で、ソフトクリームを持って食堂から出てくる。「バケツや洗面器を持ってきた方はお断りすることもある」とのアナウンス。海上自衛隊の中でも異例の長期航海を乗りきるにはユーモアも必要なのだろう。

17. 一路南へ

 出発して4日目。すでに日付の感覚は失われつつある。船室には窓がないので、意識的に甲板に出ないと明るいのか暗いのかさえ分からない。日常での日付感覚が週単位の行事とか、スケジュールに支えられていることがよく分かる。

 

 1日目の午後にはもう陸は見えなくなったが、その状態がもう数日続いてい

る。しらせも最初の1週間ほどはひたすら南に下るだけだ。天気や波の状態は

日々変化し、冷たい海の色を呈してきたが、風景の変化といえるのはそれくらいしかない。

 

 ときおり海鳥が飛んでいる姿を見つける。すでにオーストラリアから100マイル以上離れ、見渡す限り海原という場所で彼らはなぜ、どこを目指して飛んでいるのだろう。同行する鳥類専門の院生に聞くと、それほど珍しいことではなく、渡りの一種なのだという。それに南氷洋には彼らの食物になるオキアミも多いのだそうだ。

 

 彼らの生態をよく知る専門家から見れば、ごく当たりまえの行動なのかもしれないが、専門外からすれば不思議な光景だ。宇宙人が空からしばらくしらせを眺めたら、きっと同じような感想を抱くに違いない。似たような物体は海の上にたくさん浮いている。たいてい、同種の生き物が多く住む場所を目指しているのに、この物体だけはなぜか同種の生き物のいない何もない白い大陸を目指している。彼らはなぜそこを目指しているのだろうか、と。

 

 あさって7日は南緯55度を越える予定だ。南緯55度の根拠はよく知らないが、そこから先が南極地域での行動ということになっているらしい。その数日後には初氷山に遭遇する。何月何日の何時何分何秒が初氷山発見か、しらせ側からのクイズが出された。何秒まで当てさせるところが海自らしい。昨年は12月8日と、かなり早かったのだとか。

 

 現在暴風圏通過中。昨晩もかなりゆれ、船倉の何かがきしむ音が時々船室にも響き渡る。今日から仕事(隊員へのヒアリング)を始めた。これまでかなり揺れても酔うことはなかったが、仕事に緊張したのかヒアリング中に派手に戻して、ヒアリング相手に背中をさすってもらう始末。昼食・夕食抜きで、「しらせで脂肪備蓄計画」に赤信号が点灯。

 

写真:まだ荒れる前の航海中に船橋にて、三毛猫のコウイチローとともに(第一次観測隊でオスの三毛猫が飼われた話は一部では有名らしい。オスの三毛猫は遺伝的に珍しいため、幸運を呼ぶとされているらしい。そのとき贈られた三毛猫は隊長永田武に因んで「タケシ」と名づけられた。この猫も今次隊土井浩一郎隊長に因んで「コウイチロー」と名づけた。殺風景な船室での癒しになっている。

16. 12/2出発しました

フリマントルを出て約7時間。日はまだ高く、照りつけている。観測隊の行事は終わって、艦上体育の時間となった。しらせは海外では「軍艦」扱いだから日本国を代表する扱いを受ける。威容保持のためいくつもの決まりがあり、そのうちのひとつとして、甲板に短パンで出ることが許されていない。しかし、艦上体育の時間帯だけは短パンで運動することが許されている。

 

 夏訓練のときから結構運動が好きな人が多いことは分かっていたが、60人強の観測隊のうち20人近くの人が走っていた。研究者や技術者にはランニングのようにこつこつとやる運動が好きな人は、意外と多いのだ。

 

 島影ひとつ見えない大海原の上でのランニングは爽快だ。しらせの01甲板は一周約250m。たいていの体育館の二階のギャラリーよりも距離はあるし、幅が広いので、追い越し、追い抜かれも苦にならない。おまけに船首に向かって走るときには強い向かい風になるし、時々揺れる船体に対してバランスをとらなければならないので、体幹にもよい。暴風雨圏を抜けたら2~3人組での60分リレー大

会、なんて楽しそう♪

 

*村越の代わりにTEAM阿闍梨が記事をupしています

15. フリマントルにて

西オーストラリア州最大の都市パースはやや内陸に位置しているため、その外港として稼働しているのがフリマントルである。僕らはここに直行で来るが、約2週間の長旅をしたしらせと自衛艦はここで、積荷としばしの休息を取る。休息とは言え、在留邦人や地元有力者を招くレセプションや日本人学校の見学会があり、大変だ。海上自衛隊だからどんな船だって操れるのは当然としても、子どもから大人までそれぞれに趣向を凝らした接待をするのは大変だろう。多彩な活躍には頭が下がる。

 

 しらせに乗ると、いよいよ南極に向かうのだという心持ちが高まるが、積荷整理の手伝いなどは拍子抜けするくらいの作業量で、その分陸に上がってジョギングしたり、街のスーパーで買い忘れたものを買ったりと、日常的な生活に引き戻されてしまった。港を離れれば覚悟も決まるのだろうが、まだ何か買えると思うと、帰って「忘れ物はないだろうか?」と不安になってしまう。

 

 結局出発までには終わらなかった仕事もこの数日で片付けることができた。まさかそのために数日のバッファーが取ってあるわけではないだろうか、人間なにかと完璧にはできないものだ。こうして余裕があるからこそ、仕上げられる仕事もある。明日からはメールがほぼ使えない生活が20日間も続く。そもそも船外とのメールは実質的な意味を持たないだろう。メールが日常に入って20年以上経て始めてのメール無しの生活はどんなものになるだろう?

 

 今日12月1日が最後の滞在日で、明日の10時にフリマントルを出港する。

14. 出発

写真:左上から時計回りに、南極地域行為者証、出発式で挨拶する土井隊長、見送りに来てくれた家族と、パース到着後はすぐに「しらせ」に滞在、隊員を送る職場の人たちの横断幕。基準点調査でお供する国土地理院の方達

 

 

Ipadのスケジュールに空欄の目立つ11月こそ、南極での研究の準備をしようと思っていた。特別な装置などいらない行動科学的なデータ収集だが、調査やその分析のための先行研究は目を通しておきたい。しかし、次から次へと新しい用事が白いスケジュールに書き込まれ、同僚の形容によれば「殺人的なスケジュール」で11月が過ぎていった。

 

 最後の週に、大学の仕事の引き継ぎを何人かの先生とした。アウトドア関係の仕事も引き継ぎを済ませる。1月末には10年間続いた500人規模のイベントがある。自分の力で引っ張ってきたイベントだけに、今年は休止することも考えた。だが、同僚が引き受けてくれることになった。大学や地域のクラブも協力してくれる。学生たちからも、専門化された作業から雑用まで引き受けると言ってくれる者が出てきた。引き継ぎをする度に、自分がいなくてもこの世界は回り続けるのだという感傷じみた心持ちになる。退官間際の先生はそんな風に感じて過ごすのだろうか。

 

 オーストラリアに飛ぶ成田発のカンタス便は19:30の出発だが、集合は14:30に設定されている。第二ターミナルのJカウンター脇に集合し、隊員は公用旅券を一人一人渡される。私たち同行者は、それ以外の必要な書類を受取る。その中には南極地域活動行為者証もある。南極地域では環境に影響を与える活動に制限があり、それらの行為を行う者は、環境大臣から、個々にこの証を受けなければならない。私の研究は直接こうした行為を行うものではないが、同行する野外調査の一員と見なされるので、動植物の採取や潜水、特別保護地域への立入、が記載されていた。

 

 チェックインを済ませた後に、駐車場ビルの有料待合室で、出発式が行われた。文科省の担当課課長補佐の壮行の辞、極地研所長や第59次隊隊長、同越冬隊長の挨拶のあと、全員の写真撮影があって、ささやかな式は終わった。隊員の3~4倍の見送りの人がいただろうか。

 

 見送りに来た人との別れの場となる手荷物検査場の入り口では、隊の旗とともに家族や同僚との写真撮影が続く。職場の同僚が用意したであろう趣向を凝らした手作りの横断幕が微笑ましい。見えなくなるまで小さくなる姿を見送ることができる晴海からの出発がなくなっても、場にあった別れの儀式は生き続ける。行き慣れた海外遠征の体で出発する気でいたが、来てくれた家族と記念写真も撮った。4ヶ月の留守の大きさが実感できる。1年4ヶ月の別れとなる越冬隊員やその家族の心中はいかばかりだろうか?

 

13. 壮行会

 

 大学院生だったころ、偉い先生のお供で、学会の重鎮が揃うシンポジウムに行った。会場は大学とか公共施設ではなく、明治記念館。世間を知らない大学院生は、敷地の門のところにドアボーイが立っているだけで、「おーっ」てなる。南極地域観測統合本部主催の壮行会は、その明治記念館で行われる。華やかな宴会場で防衛大臣と文科大臣が壮行の辞を送る。宇宙にでも行きそうな勢いだ。

 

 本部主催の壮行会は11月7日。それに前後して壮行会てんこ盛りの2週間が続いた。11月2日には、観測隊OB主催の壮行会が行われた。レジェンドという言葉がふさわしいOBさんの講演を聴いたり、おしゃべりをしたり・・・。伝統ある大学運動部の先輩諸氏から喝を入れられている気分だ。翌3日には、アウトドア仲間が壮行会を開いてくれた。昼間は明治期の古地図を使って都内でオリエンテーリングイベント。もともと置き土産として昼のイベント中心で準備を進めていたので、夜の壮行会にも80人も残ると聞いてびっくり。高校の時からのヒーローだった杉山隆司大先輩に乾杯の音頭をとってもらい、彼と世代交代した1980年代のことを思い出した。

 

 学生たちも、それぞれの所属に応じて壮行会を開いてくれた。毎年年末には研究室の忘年会をやる。今年はそれができないので、早めの忘年会も兼ねて壮行会をしてくれることになった。参加する学生には隊の記念品を配ろう。前日に参加数を聞いてびっくり。研究室所属学生は5人しかいないが、参加するのは30人だという。研究室配属の決まっていない1年生から、卒論真っ盛りの4年生まで集まってくれた。さながら退官記念パーティーのようだった。彼らにとっての疑問は、「村越先生、いったい南極で何研究するの?オリエンテーリング?」彼らだって、南極が自然科学研究の地であることは分かっている。

 

 「過酷な環境におけるリスクマネジメントの実践知の研究」。研究内容はもちろんだが、研究を職にする人間が、どう考えテーマを設定し、そのテーマにどう具体的に取り組んでいるかを伝えた。日頃、学生にとって僕は「先生」だが、この日ばかりは、生の研究者としての姿を伝えられたのかもしれない。

 

 その週末は、オリエンテーリング部の4年生が壮行会を開いてくれ、学生約15人が集まった。1990年代に熱心に顧問の仕事をしたが、静岡キャンパスでのオリエンテーリング活動が低調になるに連れ、部との関係が疎遠になっていた。そのせいばかりではないだろうが、2014年の春には、とうとう実質活動者が全くいない状態になってしまった。高校までの経験者がほぼゼロのオリエンテーリングで、在校生がいなくなったら復活するのは不可能に近い。浜松キャンパスの学生も手伝ってくれ、僕が構内にポスターを貼ったり、学生にビラを配ったりもした。単位でつることこそしなかったものの、「しこふんじゃった」を地で行く新勧期だった。それが功を奏して、静岡キャンパスには二人の新入生が入った。だが、高校まで経験のないオリエンテーリングで先輩がいなかったら、部として成り立たない。ウィークデーにオリエンテーリングを一緒にやるのは無理として、せめて週一回だけでもクラブらしいことを経験させてあげたい。11月から週一回、一緒に走ることにした。火曜日の夜18:30に研究室に二人が集まり、大学構内を走る。彼らは翌年度の初めに立派に新勧をやり遂げ、その後静岡キャンパスの学生数は20人近くに復活した。彼らに寄せ書きされた部のユニフォームをもらいながら、冬の夕方を3人だけで走った日々が思い出された。

 

 父が最後に越冬した15次隊(約45年前)は、今でも懇親会を開いている。7月に彼らの懇親会に呼ばれた。参加してみると、堅気の世界から戻ってきた「若」を迎えるかのようなまなざしで迎えられ、叱咤激励された。彼らも壮行会を計画してくれた。残念ながら連絡の不行き届きで参加することができなかったのだが、壮行会を開く、という趣旨だけで十分だった。

 

 どの壮行会にも本部主催の壮行会のような派手さはなかった。だが、どこでも感じるのは、送る人の南極への憧れと、そこに赴く知人がいるということへのワクワク感、そしてそこに参加する隊員への期待であった。改めて南極という地の持つストーリー性、そして南極観測が脈々と築きあげてきたブランド力を痛した。

12. 気分は柴崎芳太郎

北アルプスの基準点(三角点)にて

 第59次南極地域観測隊の参加者は全部で99名。このうち正式な観測隊員は73名で、公開利用等の研究申請を受け入れられた同行者が26名です。観測隊員は一般には観測系と設営系に分けられていますが、観測系の中でも自然科学系の研究と定常的な観測系では、仕事の内容も参加者のメンタリティもかなり異なるように思えます。自然科学系は氷床コアやペンギンの研究などに代表されるように、「そこになにか未発見のものがある」から出かけるタイプの観測、一方定常観測は、「取り続けることに意味がある」タイプの研究で、かなり実務的な性質の強い領域です。観測隊を維持するのに不可欠な設営は南極料理人以降、極限環境における日常生活として、その面白さが認知されつつあります。また、世界最大級の隕石コレクションや72万年前の氷床コアの掘削など、自然科学系は華々しい成果で注目されています。今回は、その狭間で地味に頑張っている定常観測系をご紹介。

 

 南極に対して領土を主張する国は少なくないが、現在、領土権は一応「凍結」されています。領土権を認めるわけにはいかないが、と言ってもドラスティックに領土権放棄は難しい。南極条約によって「凍結」という「大人の解決法」をとっているのです。日本は第二次世界大戦敗戦で、白瀬矗が探検した大和雪原の領土権を放棄させられたのが幸いしてか、領土権の凍結を決めた南極条約の熱心な推進者となっています。

 

 とは言え、国家事業としての観測活動をする以上、その領域の把握は不可欠であると同時に、それが人類が全地球を把握することにも貢献しているわけです。日本も、昭和基地があるオングル島はもちろん、その周辺のリュッツホルム湾やそれより西側の沿岸部で海図を作ったり、重力観測や、地図作成、あるいは気象観測を行っています。それが定常観測業務の内容となっています。

 

 気象観測のように通年で行われ、観測内容も多岐にわたる分野は4~5名の隊員が気象庁から派遣されており、その中には今年2回目の越冬となる杉山暢昌さん(静岡大学教育学部出身)もいます。一方で、海上保安庁や国土地理院など隊員1名のみ派遣の分野もあります。派遣者は1名とは言え、昭和基地周辺を除く野外での行動は原則として一人ではできませんし、作業自体も一人ではできません。こうした領域の観測活動では「支援者募集」が行われ、時間的に織り合いの付く隊員が支援しています。

 

 日頃地形図にお世話になっている身としては、国土地理院をお手伝いしない訳にはいきません。さっそく応募したところ、快く受け入れてくれました。先日いただいた行動計画書を見ると、沿岸部での重力測定、GNSS(いわゆるGPS)による基準点測位、対空標識の整備など、地図好きには堪えられない内容ばかり。国土地理院が地図を作る現場での仕事にお役に立つと思うとワクワクします。それを知ったら、きっとタモリも観測隊に応募してくるに違いない!?

 

 対空標識の整備とは、地図の基準となる点を含めた空中写真を撮影し、地図の元になるデータを得る作業ですが、10cmにも満たない基準点そのものは写真には写りません。そこで通常は基準点の周囲に1×2mくらいの白い板を設置します。もちろん、風の強い南極では板の設置などできません。そこで、露岩に白いペンキを塗る作業を行います。「地図に残る仕事!」国土地理院はこんなところでも地図を作っているのです!その地図は下記のウェブサイトで、一般の方も見ることができます。

 

 さらによく読んでみると、「基準点新設1点」とあります。現在の地図作りでは三角測量をしないから、基準点と呼びますが、基準点とは言ってみれば三角点なのです。前人未踏の大自然に(ヘリでいくんですが)、自らの手によって地図づくりの骨格となる基準点を設置する。気分は限りなく柴崎芳太郎です。

 

 

注:柴崎芳太郎は、明治後期に、唯一空白となっていた北アルプス北部の地図作りに携わった測量官であり、登れない・登ってはいけないと言われていた剱岳に登り、三角点を設置した。この話は新田次郎の「剱岳-点の記」およびその映画化によって有名である。

(編集前のブログではGSNNになっていました。修正しました。恥ずかしい・・・)

地理院のウェブで見られる南極大陸の1:25000地形図。

http://www.gsi.go.jp/antarctic/index.html

11. タロ、ジロは生きていた

 観測隊・同行者の出発まではあと3週間ほどあるが、しらせは11月12日には晴海埠頭を出港してしまう。南極観測隊の出港といえば晴海で、宗谷もふじも観測隊もろともここから出港していたが、2000年頃から観測隊は空路でオーストラリアに入る。帰りも空路だから、往復ほぼ一月短縮されたことになる。かつては帰国は4月10日ごろだったが、大学の研究者にとって、3月中に帰国できるのは大きい。

 

 隊員は11月27日に飛行機で成田を発ち、2週間ほど前に出たしらせに、オーストラリアのフリマントルで追いつくのだが、昭和基地での活動で必要な物資は全て11/12の出港前にしらせに積み込まなければならない。人文系の研究者にとって、しらせに積み込むべき荷物はさほど多くはないが、野外調査への同行のための野外用品や生活用品、嗜好品・食料などの私物は段ボールで5箱程度になる。こうした私物は、自分の手でしらせに積み込む。

 

 積み込み作業の日程は、10月23日から11月6日という余裕のある日程だが、余裕がありすぎて、なかなか行く踏ん切りが付かない。時間が足りないので、自家用車で直接埠頭まで乗り付ける考えは最初からなかった。極地研が物資を送る日通の大井埠頭営業所は祝日は休みのため、送った荷物を受け取ることができない。平日に大井埠頭にいくにも日程がとりにくい。しかも、平日は観測隊の物資積み込み作業をしているので、私物積み込みの時間にはかなりの制限がある。散々考えて、大井埠頭の宅急便営業所の所止めにして、品川からレンタカーで運ぶことにした。たかだか5個くらいの荷物を積み込むだけなので、そんなに面倒なことはないはずなのだが、はじめてのことだけにドキドキしてしまう。 

 

 舷門で当直の自衛官に挨拶して、事前に配られた通りに鍵を借り受け、観測隊の区画の自室へ。観測隊から見たらおまけに過ぎない同行者の部屋にも、ちゃんとしたプラスティックの名札が着けられていて、感激。

 船室は二人部屋の二段ベッド。ここで12月から2ヶ月以上暮らすのだ。犬が自分のなわばりにおしっこをするかのように、荷物を解いて、引き出しなどに収納したい衝動に駆られたが、それはオーストラリアで乗船した時の楽しみにとっておこう。なにしろ時間はたっぷりあるのだから。艦内も一周したい衝動に駆られたが、これも乗船時にとっておくことにした。ただ、観測隊の区画は一周してみた。

 

 すると、掃除用のカートに「ジロ」と書かれているのを発見した。これはきっとタロがいるに違いない!船は線対称だから対称の位置にいってみた。「あった!」左舷側の廊下にはタロと書かれた掃除カートが置かれていた。タロ・ジロはここにも「生き」つづけている。

10. 行ける気がしない...

 数日前、公開利用研究採用通知が来た。2年後の研究採用に向けて申請書を出していた。春からの長いプロセスの中でヒアリングも受けた。その通知かと思ってどきどきしながら開と「第59次観測隊・・・」とある。そういえば申請中なのは萌芽研究だ。これは公開利用研究だから今次隊のものだ。確かに正式採用の通知は10月と聞いていた。その通りだった訳だ。参加が文科省のページにも掲載されているにもかかわらず、本人が今頃正式に通知されるというのもおかしな話だ。それにしても、このタイミングで「不採用」だったら、えらいことだ。まずは喜んでおこう。

 

 正式の通知を受け、出発の日まで6週間を切ってしまったのだが、全然行ける気がしない。4ヶ月留守にするための様々な事前対応やら、集約してしまった授業のせいもある。おまけに秋には学内論文の締めきりやら研究助成の申請やら研究者として必須の仕事がある。そんな中でも研究準備もしなければならない。もちろん寒冷地のための装備の購入もしなければならない。大学に籍をおいて南極にいく方なら当たり前のようにこなしていることなのだろうが、なかなか新米には荷が重い。

 

 加えて大学で管理職になってしまった仕事もボディーブローのように利いてくる。日々対応はしているのだが、基本的になくなることのない種類の仕事なので、こんな仕事を代行の方に残していくのかと思うと、申し訳なく、また気が重くなる。 行ける気がしなくなる。でも行くと決めたのだから後戻りはできない。こうした種類の感情は、どこかで未練として切り捨てていかなければならないのだろう。

 いやはや、ハードルはどこまで行ってもなくならない。

 

9. 正式決定

 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/09/1396759.htm

 

 隊としての準備も進み、本隊の出発まで2ヶ月、先遣隊の出発まで1ヶ月と迫った。観測隊員・同行者が一同に揃う第二回全員打ち合わせが行われた。会議の中では厳しいやりとりもある。全員がミッションに向けて真剣に取り組んでいるからこそだろう。

 

 会議のあとの壮行会(極地研の広い倉庫で行われる)で、事務の女性が近寄って改まった口調で切り出した。何か手続きの不備があったかな?ちょっと不安になる。「今日正式に決定があって、文科省のhpにも掲載されました。」一瞬何を言われているだろうと思った。さきほど、貸与品の装備も受け取ったばかり。当たり前のように南極にいくと思っていた。こうして改めて伝えられると、自分の南極行きが正式ではなかったことに改めて気づかされる。

 

 今日が最後の勤務日である極地研の白石所長が挨拶の中でこう言っていた。「皆さんが南極に行けるのも、家族や周囲の理解、協力があってこそです。」同行者というのは南極観測隊の正式の研究テーマではない。観測隊からみたらそんなおまけみたいな研究も、極地研と南極関係の多くの人々に支えられて正式決定に漕ぎ着けた。会議に膨大な書類を準備してくれる人、自分の出す書類を処理してくれる人。書類を確認して参加を正式に認めてくれた人、それを伝えに来てくれた人。もちろん、それ以前に、自然科学の研究フィールドである南極で心理学の研究ができることに気づかせてくれた人。白石所長の挨拶を聞きつつ、それら全ての人への感謝の気持ちが去来した。

 

8. またやってしまった・・・

 

 南極行き最後の難関であった健康診断の判定結果が返ってきた。所見はついているが、合格とも大丈夫とも書いていない。隊員や同行者を決定する最高機関である南極地域観測統合推進本部に同行者として推薦することが書かれていたので、パスしたということなのだろう。

 所見がついたのは、γ―GTP等だった。いくつかの項目が静岡ではできないと分かってから、東京で健診を受けることにした。どうせ東京にいくなら、ついでに11月開催の東京アーバンアドベンチャーの調査もしてこよう!7月上旬の日曜日に調査、月曜日に受診という予定を設定した。アーバンアドベンチャーは東京の世田谷を中心とする約19km。それを古地図で回るから実走25km。天気もよくて、くたくただったが、「里山」を走った楽しさと心地よいトレーニング後の疲労感が残った。

 

 やや!?前にも似たようなことがあったぞ!人間ドッグの前の日に、うっかりスピードトレーニングをして、くたくたになったのだ。その時もγ―GTPの数値が悪くて経過観察になってしまった。問診を受けた医師は「関係ない」というが、どう考えても激しい運動の影響だ。練習後は近年ないほどに疲労困憊で、「ハードトレーニングした!」っていう充実感でいっぱいだった。

 

 かつて現役選手だったころは人間ドッグを受けると、血液系の所見がいくつもついたが、骨折して3ヶ月間ハードなトレーニングができなくなっている時には、異常所見は一切みられないということがあった。今回の所見は、ハードトレーニングができる身体になった。身体がそれに応えてくれているのだ、とポジティブに捉えておこう。

 

 問診票に書いたうつの治療歴は問題にならなかったようだ。もう10年近くも前のことだしね。南極では冬(日本の夏である6月)に終日太陽がでない極夜があり、そのころに隊員のうつ傾向が指摘されてきた。これはどの国の基地でも見られるようで、「Over winter syndrome」として研究対象になっている。越冬隊員であれば、なんらかの再確認があったのかもしれない。

 

 かくして、一応全てのハードルがクリアされた。やれやれだ。まだまだ準備の日々は続く。寒冷地に向けての様々な耐寒装備はもちろんだが、過酷な環境の中での行動観察や記録がうまくいくかについても事前にもう少しシミュレーションが必要だ。行く前に疲労で倒れないことか・・・。まだまだハードルは続く。

 

(写真は5月の時の調査の様子から)

 

7. ノルウェー人の心のふるさと

左:遙かにロンダーネを臨む。中央:ノルウェー航空の尾翼に描かれたロアルド・アムンゼンの肖像画、右:ビルケバイナースタジアム。夏はこうやってローラースキーを練習する人たちで賑わう。

 2日間のノルウェー山歩きを楽しむため、五輪で有名なリレハンメルの郊外にあるノルドセッタという場所に滞在しました。このエリアはクロスカントリースキーにとっては聖地とも言うべき場所で、ノルウェー建国の史話に因む約58kmのクロスカントリースキーレースも行われています。

 

 このレースでユニークなのは、参加者が5kgの荷物を背負うことが義務付けられている点です。13世紀に初めて統一国家を築いたホウカン・ホウカンソンがまだ赤子の時、反対勢力の追っ手からの逃避行を余儀なくされました。この時赤子である王子を守り厳冬期の荒野をリレハンメルからレナまで送り届けたのが、ビルケバイナ-と呼ばれる兵士たち2人でした。この時の王子の体重が5kgだったのだ。ビルケバイナーとはもともとは白樺(ビルケ)の皮で作ったすね(バイン)あてを当てた、いわば貧乏兵士への蔑称でしたが、それがいつしか屈強の兵士を意味するようになりました。リレハンメル五輪の時にクロスカントリースキーのメイン会場は、彼らにちなんで、ビルケバイナー・スタジアムと呼ばれています。

 

 自然に立ち向かう屈強なイメージはノルウェーにふさわしく思えます。1911年にはノルウェーのアムンゼンが世界ではじめて南極点に到達しました。その後もノルウェーは南極の探検を続け、1930年には東南極の広大な土地を当時の王女にちなみドローニング・モード・ランドと名付けており、このエリア一帯は随所にノルウェー語の地名が付けられています。昭和基地があることで日本には有名なオングル島も、ノルウェー語が由来です。  隕石調査で世界的な研究成果を挙げたセールロンダーネ山脈もまたノルウェー語です。セールはノルウェー語で南という意味で、リレハンメルの北方にあるロンダーネ山塊に因んで名づけられたものです。印象的な山容に恵まれるこの地は、ノルウェー人の心のふるさととも言われています。

 

 今回はロンダーネにいく時間はありませんでしたが、遙か彼方に雪を冠したロンダーネ山塊を見ながら、ノルウェー人の探検のことに思いを馳せました。

6. 南極氷のオンザロックはなぜ高い?

氷床コアの掘削の計画を語るリーダーの河村さん。こんな感じで氷床の下の岩盤の地図をつくる(らしい)。

 

銀座のバーにいくと南極の氷が入ったオンザロックが5000円もするらしい。銀座のバーには行ったことがないので、ほんとのところは分からない。昔から聞く話なので多分ほんとなのだろう。なぜ、そんなに珍重されるのか?そこには南極の氷の成り立ちが関係しており、日本の観測隊の4つめの基地ドームふじが作られた理由が隠されている(ちなみにここは南極料理人の舞台でもある)。

 

 日本の南極観測には4つの基地がある(あった)。おなじみ昭和基地は1957年にスタートし、今年の1月には60周年記念が行われた。その他にみずほ、あすかという内陸の基地がある。いずれもとってもジャパニーズな命名である。南極料理人の舞台ドームふじは、ドームとよばれる南極大陸の高原上の頂上部にあり、昭和基地から1000kmの南極点寄りにある。標高は3800m、富士山よりも標高が高いのだ。いつでも高地トレーニングだ。3800mのうち氷の厚さが約3000m、地面(氷面)の下はず~っと氷なのだ。基本的に最高点では氷が流れにくいので、氷がたまりやすい。だから氷床も厚くなっている。

 

 これらの氷は言ってみれば氷河である。普通の氷が水を凍らせてできるのに対して氷河は雪が積もってできる。溶ける前に新しい雪が降れば、古い雪は圧雪され、次第に氷化する。それが気の遠くなるような年月繰り返されてできたのがドームふじの3000mの氷なのである。氷の元は雪なので、できる時に周囲にある空気を巻き込んで氷になる。だから南極から持ち帰った氷には小さな気泡が沢山含まれ、白っぽい。それが溶ける時にぷちぷちと小さな音がして、そこから太古の空気が蘇るのだ。うーん、ロマンチック!それこそが南極氷オンザロックが珍重される理由だろう。

 

 氷が古ければその中に含まれている空気も古い。3000m下にはおおよそ100万年前の氷があると推定されるので、空気も100万年ほど前のものとなる。つまりその空気を分析すれば、100万年前に至る大気の組成(例えば二酸化炭素の存在比)が推定できる。そこから地球の環境変動の情報も得ることもできる。言ってみれば「環境の化石」が発掘できるのだ。

 

 ドームふじでは、すでに72万年前の氷「氷床コア」を採掘した。計画ではもっと古い氷がとれる期待があったのだが、そうはならなかった。計画が策定された当時は、とにかく深く掘れれば古い氷が得られると考えられていた。だが、実際掘ってみると、深すぎると底が地熱で融解しており、氷床コアが得られないのだそうだ。だから現在は仏・伊協同のドームCでの80万年が最古の氷である。

 

 蓮舫さんに反論するわけじゃないが、スポーツも科学も1番じゃなきゃだめなんだ。もうちょっと正確に言えば、1番を目指してこそはじめて得られるものがある。日本の南極観測も100万年という「世界記録」を目指して今次隊から調査が始まる。といっても今年やることは雪上車にアイスレーダーをくっつけて縦横無尽に走らせて氷床の下の岩盤の正確な地図を作ること。掘削は来年以降、成果が出るのはさらにその先だろう。なんだか五輪に向けてジュニアを育成しているみたい。スポーツでも研究でも、根気強くやらないと一番にはなれないんだな。

(本稿は私の理解力で書かれていますので、部分的には不正確な部分があることをご容赦ください)。

5. はやぶさ2

 

 小惑星からたかだた数個の砂粒を持ち帰ったはやぶさの何がそんなに凄いのか?かなり懐疑的な気持ちで「はやぶさ」の映画を見に行ったのですが、すっかりJAXAの思惑に載せられてしまいました。数億キロ先にある小惑星に到達するのは、ナヴィゲーションという視点で言えばとてつもない精度です。それを満身創痍の推進系で成し遂げたはやぶさには心の底から感動し、大気圏突入で燃え尽きるシーンでは眼が潤んでしまいました。その後継機はやぶさ2が目標とする「りゅうぐう」まで後1年というニュースが流れていました。

 

 ほんとに、JAXAはPRがお上手。はやぶさ2が打ち上げられたのは2014年12月。2年半ほど飛んで、残りが1年。往路の行程だけでも30%以上は残っているのです。なんだ、まだ成果は海の物とも山の物ともつかないじゃないか。

 

 そのはやぶさ2の課題はやはり航法。今回も衛星の画像をもとに小惑星との位置関係を把握する光学航法やらレーザー測量で小惑星との距離を把握する装置やら、とにかく、近づいた時にりゅうぐうの様子を知る観測機器を沢山搭載しているようです。紹介している科学者がりゅうぐうの模型を示して、「これがりゅうぐうのだいたいの形です。というか、私たちはりゅうぐうについてこの程度のことしか分かっていないのです」と語っていました。だから、りゅうぐうの表面がでこぼこなのか岩が多いのか斜面がどうなのかといったことも分かりません。急斜面だったり岩が多かったりしたら、そこに着陸すると、機体損傷の恐れがあります。だから現物を見ることができない(そして光学装置で見たとしても数分(?)のラグがある映像しか地球で見ることができない)着陸地点の選定は、はやぶさ2成功の第二のハードルと言ってもいいのでしょう。

 

 「安全なところを選んでしまえば、科学的に面白くない場所を選んでしまうかもしれません」と、はやぶさ2に関わる別の科学者もコメントしていました。なんだか南極観測も一緒だなあ・・・。はやぶさなら、数百億円(?)の機体が壊れてしまっても人命には影響ありません。しかし、人間が直接データ収集にあたるフィールド科学では、科学者の知的探究心は時には安全と相反する事態を引き起こす可能性もあります。

 

 あるフィールドアシスタントの方が次のように語っていたことがあります。「時間だからもう調査止めて帰りましょう、これは絶対言わないことにしてました」それは、時には研究者をよりリスクの高い状態に置くことにもなります。一方で、そんなFAのアシストは、世界で初の鉱物の発見につながりました。「安全が第一」もちろんその趣旨に相違はありません。しかし、その意味をより深く吟味することが安全と科学的意義のジレンマを乗り越える鍵になるのかもしれません。

 

4. 夏祭り

 

冬と夏の二つの訓練を経て、7月から本格的に観測隊は出発の準備に入ります。その皮切りが「隊員室開き」です。7月になると、設営の方を中心に、職場が正式に極地研究所の南極観測センターに移ります。そこに設置されるのが隊員室です。膨大な資材、事務作業がここを中心に行われます。その隊員室の設置に併せて行われるイベントが「隊員室開き」です。ここでは隊員や同行者は「ホスト」となり、ナショナルチームを支えるシェフたちを中心とした料理と飲み物でゲストをもてなしながら、隊員のお披露目します。ゲストは関連会社の同僚や上司、過去の隊次の隊員・同行者、報道や研究関係の方たちです。ざっとみて隊員は60人くらいですが、全体で300人くらいはいたでしょうか。隊員の4倍くらいゲストがいた勘定になります。はじめて隊に参加する隊員も、関係者の前で紹介され、一言抱負を述べることで、改めて観測隊員の一員になったと自覚が深まるのでしょう。

 

会場は極地研の倉庫です。まだ日の残る18時にスタートするので、西日が暑いです。そんな中でバーベキューを焼いたり、隊員とその関係者がわいわい歓談している姿はまるで夏祭り。盆踊りが始まりそうな勢いです。

BBQ人手足りない!処務の方の指令で、僕も野菜焼くのを手伝いにいきました。チキチョー、隣の肉は大行列なのに、野菜は誰もとりにこないじゃないか。「ヘルシーで美容にもいい野菜をどうぞ~」学園祭のころの大学生のような呼び込みをしたくなる雰囲気です。初めての共同作業は冬訓練のコンパスベアリングですが、隊員室開きは隊員全員が共同して何かをする初めてのイベントであり、観測隊の結束を固めるにはなくてはならないイベントです。

(写真は挨拶する土井隊長)

 

3. どうしたら南極にいけるのか?

 

1956年の第一次南極観測隊は、国民の大きな支持と支援でスタートしました。NHKのプロジェクトXを見て知ったのですが、そのころ朝日新聞のキャンペーンに対して、全国から多額の寄付が集まったそうです。なけなしの小遣いを寄附した小学生もいたとか。現在極地研究所の白石所長もその一人なのだそうです。今で言えば宇宙飛行にも匹敵する冒険扱いだったのでしょう。

 

それ以来のブランディングのお陰で、今でも「南極観測」というと、「すごいですね」という反応が多くの人から返ってきます。今でも「南極に行きたい!」と強く願っている人は僕の周りにもいます。

 

どうしたら南極観測にいけるのでしょうか?まず、思いつくのが研究者。オーロラ、ペンギンなど、誰でも思いつく南極でしかできない研究の他にも、日本の南極観測はオゾンホールの発見、ペンギン以外の様々な南極独特の生態系の研究、氷床や地学的研究で国際的な成果を多数上げています。たとえばセールロンダーネという山塊のそばでは大量の隕石を発見し、日本は南極隕石の最大の保有国でした。雨水による浸食や流出のない南極では氷の上に積もった隕石は氷とともに少しづつ流され、それが山塊のような障害になる地形にぶつかるとそこにたまります。氷床コアの掘削でも過去72万年にわたる古環境の復元に成功しています。南極の氷は銀座でオンザロックにすると5000円だそうです。珍重される理由は、氷に空気の小さな粒が含まれており、それがオンザロックにすると溶けてプチプチと独特の音を出すのだとか。南極は水が凍って氷になるのではなく、積もった雪が押し固められて氷になるのですが、その際、雪が降った時の空気も巻き込んで氷になるため、こういう現象が見られます。深く掘れば掘るほど古い空気が含まれ、それを分析することで数十万年前の大気の状況が復元できるのです。

 

適当に掘れば得られるというものではないのです。今年出発する59次隊では、これまでよりも古い氷を得られる場所を探索して、来次以降の100年前の氷の獲得を目指しています。

 

研究者が1年間文明社会と隔絶されて生活するには、その生活を支える人たちが必要です。それが設営です。約10ヶ月を自分たちだけで過ごし、全ての問題を解決しなければなりませんから、機械や電気のスペシャリストが必ず越冬します。たとえば発電機ならヤンマー、建築作業ならミサワホーム、電気なら関電工、車両ならいすゞなど、特定の大企業が毎年のように派遣する領域もあります。そんな企業に入るのも、一つの手かもしれません。ただ、考えてもみてください。一人でその領域の責任を背負う。それだけの人材として大企業がプライドをかけて派遣する社員さんです。それに選ばれること自体、同行者は愚か、研究者隊員を凌ぐ狭き門であることは容易に想像がつきます。

 

スペシャリストとして直接公募される領域もあります。代表的なのは医師、調理師、そしてフィールドアシスタントです。医師、調理師にも多彩な人がいます。調理師の中には、「ナショナルチームの胃袋を支える」という強い使命感に燃えている方もいます。16人以上の体重を到着時より増やして帰国させるという目標を掲げたものの失敗したため、リベンジに再び南極を目指す調理師の方もいます。

 

フィールドアシスタントは最近になって採用されている職種です。その名の通りリスクの多い極地での観測活動を安全・装備面で支えます。多くの場合山岳ガイドの方が就いていますが、これも狭き門のようです。過去には北海道で雪崩遭難の防止や山岳に関する記事執筆で有名な阿部幹雄さんや山岳スキーでも活躍されている佐々木大輔さんなども隊員となっています。

 

その他に気象観測では気象庁から毎年5人程度の派遣があります。今回そのチーフ的な立場で参加する杉山暢昌さんは、静岡大学教育学部の卒業生で2回目の越冬となります。大学にとっても大きな誇りです。

 

教員で南極にいくこともできます。南極から衛星通信によって国内での授業をする教員派遣の方です。今次隊は川崎市の小学校の教員の山口直子さん、秋田県の高校の教員である須田宏さんが参加されます。

 

そんな多彩な人たちが約1年間の間外界とは隔絶されて生活する。そこに生まれる絆、そして時に葛藤は部外者の想像を超えて余りあります。リーダーのお手本のように思われる第一次隊の隊長西堀栄三郎氏ですが、中野征紀氏の「南極越冬日記」を読むと、西堀さんの隊長も必ずしも順風満帆ではなかったようです。それでも1年を自分たちだけで過ごさなければならないのが、越冬隊です。

 

先日も、約45年前の第十五次隊の懇親会に縁あって参加させていただきました。ご存命の最高齢は90歳を超え、二十歳の時に参加した最年少の隊員も今では64歳。ほぼ毎年のように懇親の場を持つ彼らに、南極での越冬の日々の充実ぶりが思い浮かびました。

 

2. 健康診断がやばい

 

 同行者として南極にいくにあたって、ハードルが4つ考えられます。第一のハードルは研究テーマを認めてもらうこと。外部からの「持ち込み」研究ですから、その意義を認めて貰わない限り、南極にいくことはできません。南極観測経験者ほぼ全員が「意義が高い」と言ってくれてれてはいるものの、回答者はいずれもOBですから、現役世代とは意識が違うかもしれません。また組織は現実的な理由によってダイナミックに動いていますから、意義は認められても、現実問題として採用されるとは限りません。

 

 まだ南極行きが夢でしかなかった58次隊の訓練全般にオブザーバーとして参加させてもらい、幸いなことに質問紙調査をやらせてもらうことができました。結果はまずまずでしたし、経験者と未経験者の意識やリスクに対する知識の違いも明確になりました、それについては一定の評価も得ていたことから、研究の意義に関してはクリアできているだろうと考えていました。公開利用研究というカテゴリーで同行を申請しましたが、一回のやりとりのあと、受理してもらえたので、まあ大丈夫だろうと分かったのが3月半ばでした。

 

 第二のハードルは勤務先の大学です。もっともこれも、研究者としての研究活動の一環であり、しかも大学での授業ではかなりの程度安全教育や防災の教育に携わっていますので、理由は十分です。あとは気持ちよく納得してもらうかどうか。校長職にある時から、「校長が終わったら、南極にいく!」「子どもたちに『南極授業』をする!」と、50歳をすぎたおっさんが夢みたいなことを言いふらしていたお陰で、「奴はいくんだろう」という機運が醸成されました。

 

今年度、附属学校園統括長という仕事を拝命してしまいました。そもそも行けるような立場にはないのですが、様々な幸運にも恵まれ、組織として一定の理解を示していただきました。感謝の言葉もありません。

 

 研究の意義に関連して、同行者として最大のハードルは費用の確保です。一体、4ヶ月の夏隊参加のためにどれだけの費用負担があるとお思いでしょうか?研究者や大学の仲間によくクイズを出します。回答のモードは代替300-500万円というところです。

 

 砕氷船「しらせ」に払う4ヶ月の食費が約30万円、また現在の観測隊は空路でオーストラリアに向かい、そこからしらせに乗るので、その航空券が25-30万円。そのほかに健康診断代が約10万円。ここまでが直接費用で約70万円。その他に、防寒具、訓練の参加費用、これらはばかにならない額ですが、全部足しても100万円あればおつりがくる、というのが前次隊で参加した同行者の言葉でした。

 

もちろん研究費を申請する予定でいました。しかし、「4ヶ月なら、家にいても40万円はかかるよな。航空券だって旅行だと思えば、当然の費用」、そう考えると、最悪自腹でも行けると高をくくってしまったのが悪かったのでしょう。申請していた科学研究費は不採択でした。それでも、別の小規模な研究費申請、その他をかき集めて、日本にいればかかるはずの食費分程度の負担で済みそうな状況です。これにあたっては、競技仲間がチャリティー的なイベントを手伝ってくれることになったことにも感謝しています。

 

 そんな訳で、4つのハードルのうち3つは早い段階から概ねけりがついていましたので、最大のハードルは健康診断ということになります。過去には観測隊員ではないものの、死亡事例もあります。越冬隊の場合には約10ヶ月間、最先端の医療とは隔絶された環境にいますから、要求される健康診断内容も多岐にわたります。夏隊はその隔絶がせいぜい3ヶ月ですが、それでも越冬隊に準じて要求されるため、これがハードルだということは容易に理解できます。そう思って「健康診断がハードルなんです」というと、僕が日常的に走っていることを知っている周囲の人は「村越さんに限って・・・」といってくれるのですが、実際これが大きなハードルとなり、執筆時の今でもクリアできていいません。

 

 というより、そもそも所定の健康診断を受けることさえ、静岡ではできないのです。これには愕然としました。一つ一つはそれほど特殊な検査ではないものの、静岡の病院では健康診断をパッケージとして実施しており、そこに入っていない検査は基本的にやってくれないのです。そんな訳で、胸部CTは東京まで受けに行く羽目になりました。やれやれ。

 

1. 南極に行きたい

 

 南極に行きたい、と思うようになったのはいつのころからだろうか。正確な年を思い出すことはできませんでしたが、「南極料理人」を読んで、突如そう思ったことだけは憶えていました。読書日誌を見返してみると、それは2010年度の早い時期でした。

 

 それまでにも人並み以上には南極に関して知っているつもりでした。でも、それは研究分野としてオーロラやペンギン以外に、雪氷や地学系の研究があるといった程度のものでした。まして、南極で伊勢エビの天ぷらが食べられるとか、ミッドウィンターには酒池肉林が繰り広げられていることなど、想像することもできません。日常生活にはあまり頓着しないほうなので、南極料理人の何がいったい自分の心をつかんだのか、今もって分かりません。痛切に「南極に行きたい」と思ったことだけは憶えています。人はDNAの仕業といいます。しかし、寒さへの選好は遺伝しないことは、自分自身がよく知っているので、多分それは正しい理由ではないのでしょう。

 

 さて、どうしたら南極に行けるのだろう。料理人や医者が公募であることは知っていました。医者になるには6年。工学部の1年後輩で39歳から医学の勉強を初めて医者になった奴がいますが、さすがに時間がかかりすぎる。料理免許は1年もあれば取れるでしょうが、免許があるくらいでは1年間40人の隊員の胃袋を満足させることはできないでしょう。しばらくして気づいた。そうだ、リスクマネジメントの研究だ。

 

南極では当時は過去1例の死亡事故が発生していました。僕が生まれた年の10月に四次隊で福島隊員がブリザードの中でロストポジションし、遭難死したのです。道迷いの本を書く時に、それ以外にもロストポジションも含めて細々したアクシデントが起こっているのを読んでいました。だとすれば、隊員は日常的にリスクに晒されているのだから、その安全確保も重要なテーマになりえるでしょう。

 

 父を始め、何人かの南極関係者に話をした。否定的な答えを返した人は誰もいません。むしろ、「それは大事な研究だ」というのが多くの人の共通した認識でした。リスクマネジメントで行ける!そう確信できたころには附属学校の校長職に就くことが決まっていました。

 

お預けになった3年間は充電期間だと割り切りました。成山堂の極地研ライブラリーを始め、南極関係の本を読み漁りました。論文にも当たりました。気分を中心とする臨床心理学的な研究は日本でも諸外国でも行われていました。一方、実験心理学の研究はすぐには見つかりませんでした。そのうちに、Journal of Human Behavior in the Extreme Environment、なんていう雑誌が出ているのも発見した。Naturalistic Decision Making という研究領域があり、その中で過酷な環境における意志決定についての論文集も見つかりました。南極が自分がこれまで積み重ねてきた自然環境でのリスク特定能力や回避能力の延長線上にある、魅力的かつ現実的なフィールドであることが再認識できました。

 

 実現への歩みをスタートして知ったことですが、実はこのころ、南極にいくことはまだできなかったはずでした。ご存じのように南極は自然科学の研究フィールドです。そこには人文社会的環境が基地という限定された空間にしかないのだから当然のことです。そして、様々にある極地研の研究カテゴリーのどこにも人文社会科学は入っていなかったのです。初めて採用への道筋が開かれたのが58次隊(平成28年11月出発)。法学者のある神戸大学の柴田さんが、夏隊に参加しました。法学者が南極?彼は南極条約(南極はどこの国の領土でもないといったことを国際的に取り決めている)を研究していたのです。彼は「現地主義の南極条約」というテーマで58次隊に参加しました。

 

 うーん、それほんとかな。日本で文献研究したほうがはるかに効率的なんではないだろうか。「あなた、行く必要ないでしょ!」と問い詰めたら、「いく必要はないけど、行きたいんだ」と白状しました。分かる気がします。南極はそんなところなのです。職種によっては「3回目の挑戦でようやくなれました」という人もいます。

 

 58次、59次と人文社会科学の研究が南極観測で行われることになります。一方で、これは「公開利用」といって、大学共同利用研究機構である極地研究所が、南極でしかできない研究に昭和基地という場所と観測隊の資源を提供しますよ、という、いわば持ち込み研究です。平成31年から始まる第Ⅸ期中期計画後期で61次隊に向けて公募された研究カテゴリーでは、初めて人文社会学系の研究も募集が行われています。心理学にとっても南極という特殊なフィールドを研究対象にする素地がようやく整いました。

 

0. 第59次南極地域観測隊

一昨日の6月23日、第59次南極観測隊の隊員が正式に発表されました。http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/06/1387037.htm

 

59次隊は夏隊41名、越冬隊32名の合計73名で構成されています。夏隊というのは、11月に出発し、南極に約1ヶ月半滞在し、3月末に帰国する隊員。越冬隊員はさらにそこから1年間南極に滞在し計1年4ヶ月して帰国する隊員です。南極観測隊というと昭和基地で1年過ごす越冬隊のそれが強いでしょう。なにしろ夏隊はオーロラさえ昭和基地では見ることができないのですから(ずっと白夜)。

 さらに言えば、南極観測はその名のとおり観測・研究活動ですが、厳密な意味で研究観測に携わる人は32名中の14名に過ぎません。

じゃあ、あとの18名は何をしているかって?1年間外部との接触もできずに観測活動を続けるには通信環境の維持管理が必要です。土木・建築作業も必要です。もちろんシェフもお医者さんも必要です。1年もいれば、機械のメンテナンス、環境保全、事務仕事も必要になります。過酷な環境の中での研究の安全を守る野外支援も欠かせません。つまり直接的に研究に携わる14人を18人が支えてこそ南極観測が成り立っているのです。彼らは「設営」と総称されます。日本語ではややわかりにくいが英語でいえば、logistics、明快です。

 

観測・研究者は自分の研究に対する強いモティベーションで南極に赴きます。一方、設営の人のモティベーションは様々です。でもその根底には「国家事業」である南極観測を支えたいというやはり強い思いがあります。

 

彼らの他に南極観測隊には「同行者」というくくりがあります。これは極地研究所の正式事業ではないが、広く研究者に昭和基地や南極観測隊の資源を提供し、研究に役立ててもらう仕組みです。同行者は、自費(多くの場合は自分で獲得してきた助成金など)で参加します。

 この冬、私は数年来の計画を実現させ、同行者として南極観測隊に参加することになりました。最大ハードルは健康診断かも・・・。

 

研究者はもちろん、設営の人や同行者は何をするために南極を目指すのか?そんなことも含めて、より多くの人に南極観測の今を伝えるためにブログをスタートすることにしました。11月27日成田出発まであと5ヶ月です。