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事故の後ならなんでも言える

静岡県の県立施設で行われた体験活動で事故が起こった。全国紙の一面にも取り上げられたので、見た人も多いだろう。三ヶ日青年の家。今年から指定管理者である小学館グループによって運営が行われている。同じ静岡県の朝霧野外活動センターの指定管理選定に携わったり、外部評価委員をした経験上、強い関心を抱かずにはいられなかった。

 

 事故にあったカッター訓練が行われたのは注意報が出ていた時間帯だが、これまで出航した最悪の時よりも風速は弱かったらしい。対応規則では警報が出たらやらない。注意報なら利用者側との協議となる。かつての学校での体験的事故を調べたり、その事故を元にシナリオ演習を行った経験からは、このような事態では、「実施」へと傾く可能性が少なからずあることを見てきた。もともと自然体験における困難の教育的価値を認めるからこそ、このようなプログラムを実施する訳だし、その中で「危険なほどの困難」と「困難」の境を一義的に決めることは容易ではない。

 

 記事を読む限り、出航時から次第に風雨が強まったこと、カッターが転覆したのは風雨そのものせいではなく、モーターボートによる曳航のせいだと思えることなどを考えると、出航時に「危険なほどの困難」とは考えなかった判断は、あながち間違っているとは言えないのではないか。むしろ問題があるとすれば、次第に風雨が強まった時の即時的な判断や、曳航時のカッターの大きな揺れに対する危機センスに問題があったのではないかと思う。状況はだいぶ違うが、昨年のトムラウシ遭難の後に「山と渓谷誌」で指摘した、オンサイトの判断の問題に通じるものがある。

 

 事故当日のあるニュース番組は、無責任にも「こんな天気で実施したのもどんなものですかね」、的なコメントを流していた。心理学でいう「後付バイアス」である。たとえば学校教育では、プールで、カッター訓練で亡くなる以上の生徒が亡くなっている。しかも排水溝吸引のように、明確な過失がある場合も多い。困難を前提とする教育活動で、無謀かチャレンジかは一義的には決められない。