Youは何しに南極へ?もう1つの南極物語 PartI

シドニー帰国直前に、しらせを望むカフェで昼食を摂る。一面オレンジだった船体の下部がねずみ色になっているのが、氷海との格闘を物語る。
 私が大学に赴任した時、15歳ほど上の教授から、過分な期待の言葉を贈られた。父が第一次南極観測隊に参加したことを知っての発言だったが、なぜそのように言われるのか全く理解できなかった。父は確かに南極に何度も行っているが、仕事だから当然のことで、電力会社の職員が深い渓谷に何度もでかけたり、山岳ガイドが毎日のように山に登るのと一緒だとしか思っていなかったからだ。    2001年のNHK番組プロジェクトXを見て、自分より20歳くらい人たちのこうした反応の理由に合点がいった。第一次南極観測は国家プロジェクトというよりは朝日新聞が国民を巻き込んで生み出した国民的プロジェクトであり、彼らはこのプロジェクトになけなしのお小遣いを寄附した人々だったからだ。「南極観測はすごい!」彼らはおそらく小学生だからこその素直さで、それを頭にすり込んだのだろう。彼の言葉とプロジェクトXのおかげで、「南極観測は凄いことなのだ」ということが30にしてようやく理解できた。
 1996年の2月に、スキーオリエンテーリングの世界選手権のためにノルウェーに行かなければならなかった。その年は日本も寒い冬で、すでに11月後半にはしもやけになっていた僕は、ノルウェーにいったらいったいどんなひどいことになるのか、想像さえできなかった。実際にはどうだったか?しもやけが治って帰ってきた。...
 わが部屋には猫がいっぴきいた。オスの三毛猫である。劣性遺伝である三毛は通常メスにしか生まれない。オスの三毛猫は一種の染色体異常であり、生まれる確率は相当低い。だから、幸運の運び主だか航海の守り神にされているようで、第一次南極地域観測隊に、贈られたエピソードが残っている。この猫は観測隊隊長の永田武にちなんで「タケシ」と名づけられ、越冬後は一番懐いた通信隊員の作間敏夫さんに引き取られ、天寿を全うした。わが部屋の猫もこの故事に倣って壮行会の際に贈られたもので、当然名前はコーイチローという(隊長土井浩一郎)。
 シドニー入港の朝(20日)、6時に艦橋に上がる。東の空には夜が明ける兆しが見えるが、西の空はまだ真っ暗だった。船首が向いているその方向に灯台の灯りが見える。その回りには街の灯りらしきものも見える。4ヶ月間見ることのな かった風景だ。...
 夢を見た。人懐っこい笑顔の男性がこちらに向かって歩いてくる。手を差し伸べている。防寒具に身を固めているから、きっと南極関係者の誰かなのだろう。でもこの顔は関わった58次隊、59次隊のどちらにもいない。頭の中の記憶を探る。そのとき、彼はいった。「望(ボー)ちゃん、久しぶり!よく来てくれたね。」その瞬間、吉田栄夫さんの文章中にあった写真の人物に思い至った。福島紳。南極観測隊唯一の犠牲者。1960年10月10日、ブリザードの中で作業のために外に出たときの悲劇だった。彼を偲ぶ「福島ケルン」が昭和基地の海岸、しらせからの輸送路の上陸地点に建てられている。  眼前の彼の姿はだんだん小さくなり、やがて、僕の足元に吸い寄せられていくように見えた。同時に、「そろそろ行きましょうか」という声が聞こえた。一緒に福島ケルンにお参りに来た隊員の声だった。どうやら福島ケルンでの黙祷中に白昼夢を見ていたようだ。この場所は、リスクについて考えるために南極に来た僕にとっては、一種の聖地である。    彼の遺体は9次隊のときに発見され、遭難時に一緒に居た吉田さんによって運ばれ、荼毘に付されて、遺骨の一部はケルンにも納められている。奇しくも、彼が遭難した4次隊のメンバーが多かったという。その中の一人に父望もいた。父が生きて僕の南極行きを見送ってくれたら、その送り言葉の中にはひょっとすると「福島さんによろしくな」というのがあったかもしれない。
フランスの世界選手権への挑戦で、初めて大きな挫折を味わった後に臨んだ1989年スウェーデンの世界選手権、余暇時間の使い方にも気を遣った。興奮しすぎず退屈しすぎない、適度な娯楽が精神面の調整には欠かせない。音楽のほかに選んだのが数冊の本。その中に大江健三郎の「キルプの軍団」があった。ノーベル賞作家大江の作品では障害のある長男を扱ったものは有名だが、キルプの軍団は、部活でオリエンテーリングをしている次男をモチーフにした高校生が主人公だ。
 艦上で運動ができる場所は基本的には上部甲板と保養室という名のジムだが、氷海を離れて「不摂生を正す」自衛官が増えてきた。一方で、悪天候になると上部甲板は使用できなかったり、積雪・強風のため甲板の一部で利用が制限されるという事態が生じる。そのため、ジム利用者が急増する。もともと広くない上に有酸素系はランニングマシンが1台、自転車が2台あるに過ぎない。待っている人がいる場合には30分までしか許されていないので、長い時間のトレーニングも難しい。週1回は90分のトレーニングをするつもりだったが、どうするかな・・・。
 自然の中では何があるか分からない、だからそれに備えよ!とよく言われる。この言葉は半分は合っているが半分は間違っている。山野に限れば山岳遭難統計から分かるのは、遭難原因(態様)は高々13に分類されており、その他は5%程度に過ぎない。しかも、上位6態様で85%くらいを占める。統計的には何が起こるかはちゃんと分かっているのだ。その一方で、ある遭難態様がいつどこで誰に起こるかは不確実だ。それは自然が十分管理されていない環境であることに由来する。突然横の斜面が崩れるかもしれない。また、変化の影響は想定外に拡大しやすい。都会なら突然の雪でも喫茶店に逃げ込めが済むかもしれないが、山では数時間の行動を余儀なくされる。変化に対応できなければ、生還はおぼつかない。
 砕氷艦しらせは、行きはフリマントルからの20日間、帰りは約50日かけてシドニーまで観測隊を送り届ける。フリマントルからシドニーは直接移動しても3-4日もあれば到達できるだろう。それなのに帰路の船旅が50日もあるのは、帰路には昭和基地から東の海岸に沿って海洋調査や露岩域の調査をするからだ。そもそも2月1日に昭和基地を去るのだと思っていたら、14日まで昭和基地付近でプカプカしていた(これも海洋観測だったり砕氷性能の試験だったりする)。そこからさらに海洋観測したり、アムンゼン湾で野外調査があったりするので、それほどゆっくり動いているわけではない。

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