41. 読書

 フランスの世界選手権への挑戦で、初めて大きな挫折を味わった後に臨んだ1989年スウェーデンの世界選手権、余暇時間の使い方にも気を遣った。興奮しすぎず退屈しすぎない、適度な娯楽が精神面の調整には欠かせない。音楽のほかに選んだのが数冊の本。その中に大江健三郎の「キルプの軍団」があった。ノーベル賞作家大江の作品では障害のある長男を扱ったものは有名だが、キルプの軍団は、部活でオリエンテーリングをしている次男をモチーフにした高校生が主人公だ。

 

 ストーリーはあらかた忘れたが、題名はディッケンズの小説に登場する悪役のキルプに因んでいる。主人公Oちゃんは自分を取り巻く悪意を乗り越えて世界との関係を新たにする。そんな主人公の姿が、世界との関係を新たに構築することで競技の世界で一歩先に進もうする自分に重なった。中学校のときに、「村越は感想文を書くのが苦手だな」と言われて以来、物語を読むことに苦手意識を持っていた自分にとって、それは新鮮な体験だった。

 

 それから30年が経ち、世界選手権への挑戦と同じように、自分の目標のためだけに自由に裁量できる時間の中で、普段、なかなか読む時間のない、買い置きした新書の類を読んでみた。また、しらせ内のレンタルDVDで、映画もみた。それらの主題は、不思議なほどに現在の自分にシンクロした。

 

①国谷裕子(2017)キャスターという仕事 岩波新書

 国谷裕子はNHKの驚異の長寿ニュース番組、クローズアップ現代のメインキャスターであった。番組タイトルからも分かるように、番組の毎回のテーマは、現代を特徴づけ、その動向を理解するのに欠かせないテーマばかりだった。その最後に番組が選んだテーマが、管理の強化や同調圧力の中でも、声を上げ、未来を変えていこうと考えている若者たちだった。一方で、国谷は、管理の強化や生きにくさの根底にある社会の不寛容さにつながるコンプライアンス、リスク管理の強化を、クローズアップ現代が助長してきたのではないかという思いを忘れない。

 

 本来チャレンジがリスクを生み出し、そのチャレンジが許容できないリスクをもたらす不幸を避けるためにリスクマネジメントがある。だが、未然にリスクを管理するリスクマネジメントはチャレンジ精神とは反対の方向を向きやすい。少なくとも組織でリスクマネジメントに従事しているとそう感じる。今のような社会では、組織的なリスクマネジメントは不可欠だろう。だから、個人的なリスクマネジメントの対案を提示しないと、個人に対しても、それが適切でないのに組織的なリスクマネジメントの論理が押し付けられ、本来許された挑戦の機会が損なわれてしまう。それは自然の中でのリスクマネジメントの実践知を研究テーマとしている自分の根底を流れる問題意識だが、同時に南極地域観測隊に関わるべき理由でもある。

 

②亀田達也(2017)モラルの起源:実験社会科学からの問い 岩波書店

 日本では学問分野は大雑把に自然科学、社会科学、人文科学に大別される。いわゆる理系である自然科学に対して社会科学や人文科学は「文系」と総称される。その「文系」に対して、2015年に廃止統合などの厳しい通達が文部科学大臣よりなされた。それに対して社会心理学を研究する筆者は、自然科学と同じ土俵にたって「文系」の知の意義を提起したいという目的意識から研究を進め、また

この本を執筆した。

 

 特に興味深かったのは、モラル、すなわち価値を分配する方法の心理的基盤とギャンブルの選択の関係だった。価値分配は、自分がどのような階層に位置づくか分からない状況ではギャンブルと同様、リスクの問題でもある。著者は実験に基づき、この両者に強い関係が見られると主張する。価値の分配とギャンブルを問わず、最低の分け前を最大化するロールズ主義的傾向が見られるというのだ。 最低を最大とは、所得の分配で言えば、最低保障をできるだけ高くするような所得分配を選好することであり、ギャンブルであれば最低の配当を可能な限り高くするオッズを選好することだ。

 

 彼が提示するデータを見ると、僕は別の印象を抱く。社会的分配にはロールズ主義のマキシミン(最小限を最大限に)選択する被験者の40%程度がギャンブルの文脈(個人的なリスクの分配)には功利主義的な総額最大化を目指す点である。つまり、彼らは社会としては弱者への最低保障をできるだけ高く(これが、マキシミン)守る必要があると考えているが、個人の挑戦においては失敗しても全体の利益が最大化するやり方を許容していることになる。価値の配分は一種のリスク(配分方法が悪ければ分け前に預かれない)なので、集団全体としては最大リスクを最低にする規範が必要だと思っている人でも、個人の挑戦に限ればそうでなくてもよいと考えている人が少なくないことになる。

 

 社会としては不幸を最小限にするリスクマネジメントが必要ではあっても、個人にとっては別のリスクマネジメントの選択肢も必要になるということでもある。そういう選択肢はかなりの程度許容されている。それを実装することは、個人の挑戦機会を許容することにつながり、国谷が指摘するような非寛容さに対しての緩衝材ともなるのではないだろうか。

 

 現代の諸問題に対してマニュアル的な答えを出すのではなく、(社会科学の方法とテーマ設定で原理的なレベルでの解を与える可能性を探るという姿勢にも共感を持った。アウトドアでのリスクに対して、深い考えもなく投げかけられる「あぶないから/迷惑をかけるからだめ」でもなく「自己責任だから勝手にすれば」のいずれでもない、原理的な解があるとすれば、それこそがリスクマネジメントの研究を通して見つけ出したいものでもある。

 

③天地明察(原作:沖方丁)(しらせレンタルDVD

 しらせの45日間の航海に終わりが見えなかった2月の半ば、艦内レンタルのDVDを何度か利用して映画を観た。普段映画を見ない僕は、映画を選ぶこと自体難しかったので、まずは原作を読んで面白いと思った映画を見ることにした。最初に選んだのが「天地明察」だった。

 

 江戸時代の改暦という地味なテーマを扱った同名の歴史小説「天地明察」を映画化したものだ。碁打ちながら理系の才能に恵まれ、碁などを通して幕府や宮廷の要人に知己を持つ若き主人公安井算哲の改暦に至る奮闘を描く物語である。重要な転機でことごとく老齢の要人にその才能を愛でられ、改暦という国家プロジェクトを任されていく。

 

 若いころなら安井算哲に自分を重ねただろうが、今なら老齢の要人にシンパシーを感じる。自分たちが退いた後に社会を支える人材を見出し、育てることへの義務感、彼らが作るであろう社会への希望。しらせには今、10人を越える若い優秀な研究者の卵が乗っている。彼らがいつかはこんな夢のあるプロジェクトを成し遂げるのだろうと思うと、退屈なしらせの旅もまた輝いたものに思えた。

 

④「駆け込み女と駆け出し男」(原作:井上ひさし)(しらせレンタルDVD

 女性から離縁を持ち出せなかった江戸時代に、駆け込み寺という制度があった。この映画は駆け込み寺こと東慶寺に駆け込んだ女性と、その女性たちを本格的に寺に入るまであずかる宿屋の主人の甥っ子の戯作・医術修行中の男を主人公

とする井上ひさしの時代小説である。

 

 鉄作りの女主人ごじょは、女放蕩の亭主に愛想を尽かし、駆け込みを決意する。駆け込み寺での薬草の採取を通してごじょと主人公は心を通わせるようになった。医術の修行のために長崎にいくつもりの主人公は、2年の年季明けにはあなたを長崎に連れていきたいとごじょに話すが、ごじょは満更でもない態度を取る。

 

 2年の年季が明けて、晴れて離婚成立(夫側が離縁状を強制的に用意させられる)の席で、放蕩亭主は離縁状を渡した上で、真顔で「戻ってくれ。いや戻ってくれなくてもいい、一ヶ月でいいからうちで鉄を作ってくれ。俺はお前がいなくなってから精進した。だが、お前の作る鉄には適わない」と懇願する。亭主の放蕩中、手続きに専心してきたごじょには無視できない言葉だ。慌てた主人公、親にお菓子を暗にねだる子どもみたいに長崎までの道中の絵図をごじょに見せびらかす。そこで毅然としたごじょの一言「長崎へは行きません」いい台詞だ。

 

 主人公、ショックを受けながらも、未練がましくごじょに迫ると、こう詰問される。「長崎に何をしにいらっしゃいますか?」しどろもどろに「医者の修 行」、「戯作の修行」と答えと、ごじょにこう言い放たれる。「医術も戯作も、あなたはすでに立派な一人前です。長崎なんかに行っているときではありません。今こそそれを江戸で使うべきときなのです。」そして、最後に「江戸にならお供させていただきます。」と三つ指をつく。

 

 初参加の観測隊、しかも同行者の身分だしなあ・・・「ちょっと修行中」くらいのつもりでここに来ていた自分へガツンと来るごじょの言葉だった。