Youは何しに南極へ?もう1つの南極物語 PartII

 南極観測隊員の公表は6月と9月に行われる。僕は健康診断でひっかかって再検査だったので、6月の名簿には載らなかった。当時の総務係長には「先生、大丈夫ですか・・・」と心配されたものだ。最終的にいけるならまだしも、冬の訓練に来ていながら、結果的にいけなくなる人もいる。...
今日(3/20)、第60次越冬隊、第61次夏隊が成田に帰国した。日本にいるほうは、豪州の出国制限で大丈夫なのかと気をもんだが、現地はそれどころじゃなかったらしい。
ちまたではカミュの「ペスト」が売れているらしい。「南極を除く5大陸で感染者発生」というニュースを見ると、今読むべきは「復活の日」だろう。
アメリカで発生した9.11同時多発テロによって飛行機から車への移動手段の移行が発生し、その傾向は約1年間続いた。自動車交通の増加により、路上での事故死は2001年9月以降増加し、2002年の9月に通常レベルに戻った。リスク研究者のギーガレンザーは、これらの事実から、飛行機から車に乗り換えることで直接的に増加した死亡数を推定した。
2月の中旬、いよいよしらせは帰路に就く。公的には何も意味はないが、最後に昭和基地の沖合を通過して別れを告げる。しらせから見れば、望遠鏡でみても越冬隊員の表情は見えない距離だが、その心中は顔は見えなくても推し量ることはできる。越冬隊員にしてみれば、いよいよ自分たち30人だけで隔絶された10ヶ月近い時間を過ごすのだと覚悟を決める瞬間であろう。
極地振興会が発行している南極カレンダーは、隊員が撮影した南極の写真カレンダーだ。オーロラだとかペンギンなどのいかにも南極の季節に応じた写真が使われているので、贈り物にして喜ばれている。カレンダーの部分には、その日にあった南極関係のできごとが列挙されている。特に12月~1月にかけての夏の南極は活動が活発だ。様々なできごとが記載されている。
フリマントルでしらせに乗艦し、隊員の居室に落ち着いた直後の写真。寮の二人部屋みたいで、狭いながらもけっこうくつろげる。床に敷いてあるのは私から越冬隊にプレゼントしたござ。とりあえずしらせでも敷いておこうという算段のようだ。いぐさのにおいが強烈で、昭和基地に着くころにはいい具合ににおいが落ち着いているかも。
オーストラリア便の出発は夜なので、朝大学の事務に挨拶をして、慌ただしく新幹線に乗った。ちょうど2年前のことが思い出される。日帰りのために成田空港にいく経験などないので、必要ないと分かっていても、パスポートを持っていない事実が不安になる。今日は第61次南極観測隊の出発式。  今や、別働隊も何隊も出ているのだが、やはり大多数である本隊が日本を発つ日というのは特別感がある。空港の駐車場2階にある貸し切り待合室で、簡単なセレモニーが行われる。中村極地研所長、文科省の担当課長、そして青木隊長、青山越冬隊長、熊谷副隊長の挨拶が続く。後は集合写真を撮るだけの簡単なセレモニーだが、隊員を送り出す家族の身には格別なできごとだろう。  過酷な自然環境での生活も、リスクに対する感覚にもなんの心配もない宮内隊員だが、研究者として送り出すのに、不安がないわけではない。「娘を送り出す父親の気分」と言ったら、お父様に対して僭越だろうか。お父様は、「アドベンチャーレースをやるといった時から、何があっても覚悟はできています」とおっしゃっていたので、むしろ僕の方が遙かに不安なのかもしれない。  出発ロビーに戻ると、国家プ
南極で使うウェアラブルカメラは何がいいのだろう?とにかくバッテリーを持たせたい。冷凍庫でその「実証実験」。
研究室の机の前に「《理予》性」と書かれた色紙がある(《》内は一字)。大学院の恩師「妻木老人」の退官記念にいただいたものだ。彼は退職後、大学のすぐ近くにある妻木という集落に住んだことから、妻木老人と名乗っているが、もちろん「サイコロジイ」のダジャレである。物事について筋道を立てて考える「理」と、伸びやかで自由なことを表す「野」が里を介してつながっているのが面白いが、こちらただの駄洒落ではない。その両方を発揮して研究に励みなさいという恩師の教えだろう。

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