ブログカテゴリ:南極



南極 · 2018/04/17
シドニー帰国直前に、しらせを望むカフェで昼食を摂る。一面オレンジだった船体の下部がねずみ色になっているのが、氷海との格闘を物語る。
2018/04/01
 私が大学に赴任した時、15歳ほど上の教授から、過分な期待の言葉を贈られた。父が第一次南極観測隊に参加したことを知っての発言だったが、なぜそのように言われるのか全く理解できなかった。父は確かに南極に何度も行っているが、仕事だから当然のことで、電力会社の職員が深い渓谷に何度もでかけたり、山岳ガイドが毎日のように山に登るのと一緒だとしか思っていなかったからだ。  2001年のNHK番組プロジェクトXを見て、自分より20歳くらい人たちのこうした反応の理由に合点がいった。第一次南極観測は国家プロジェクトというよりは朝日新聞が国民を巻き込んで生み出した国民的プロジェクトであり、彼らはこのプロジェクトになけなしのお小遣いを寄附した人々だったからだ。「南極観測はすごい!」彼らはおそらく小学生だからこその素直さで、それを頭にすり込んだのだろう。彼の言葉とプロジェクトXのおかげで、「南極観測は凄いことなのだ」ということが30にしてようやく理解できた。  南極観測派遣が関係者の間で周知された時期がいつかはよく分からないが、父は比較的早い時期からそれに参加を希望していたようだ。満州で生まれ育ち、海軍兵学校に入学したものの、実戦に出る前に戦争は終わってしまった。理系の能力が高かった父だが、家庭の事情や社会的事情で大学には進学できず、給与を支給される気象大学校で学ぶことにした。卒業後は、昭和1954年まで富士山測候所、その後大島測候所で勤務していた。残された日記からは「くすぶり感」が行間から読み取れる。南極観測に参加することで、「一花咲かせたい」くらいの思いもあったのかもしれない。だが、当初は彼の思惑通りには事は運ばなかったようだ。  大島では職場上司に対する不満が強かったが、富士山測候所の勤務は性にあっていたようだ。当時の測候所長の名前はよく話題に上った(余談だが、静岡に赴任して最初に県庁の委員会の依頼が来たとき、同じ委員にその所長さんの娘さんがいた。世間は狭い!)。南極観測への参加が決まった出発半年前の初夏には夕方思いついて、富士登山に行った。終電で河口湖まで行き、そのまま河口湖登山道を夜通し歩き、朝8時に山頂について、測候所員と半荘(麻雀)して帰ってきている。昭和30年の年末には、余暇に三島測候所を訪れている。その際、山頂で強力(ごうりき)の急病が発生した際には、自発的に申し出て、「零下20度余の極寒と風速30mに及ぶ暴風とをつき、結氷による登山路の危険を冒し登頂」(中央気象台長和達清夫による表彰状文面)している。満州生まれで寒さには強く、南極にもっとも条件の近い富士山頂での勤務は、彼が観測隊に選ばれた重要な要素だろうが、西堀さんが彼を選んだ最後の決め手は実はこの出来事だったのではないかと密かに思っている。  福島隊員の遭難があった(第42回「夢」参照)4次隊の留守中に私が生まれ、その際「みんなみの氷と海の間からまだ見ぬ真の行く末思う」という短歌を残したと伝えられている(万葉集を卒論に選んだ妻のゴーストだったかも)。その後、9,10,12次には夏隊で参加している。またその過程で、気象庁を退職し、新設された極地研究所へと移っている。南極観測が華々しいキャリアになったかどうかは分からないが、少なくとも父には合っていたのだろう。  第15次隊で隊長を務めた際には、自衛官が氷山のクレバスに転落し死亡する事故も発生している。この時には彼自身のミスであわや大惨事というヒヤリハットも経験している。極地研勤務の晩年の1984年に観測隊支援室長を経験した時には、現在に通じる事故事例集の発行を主導している。その序文は今でも事故事例集の「初版の序」として残されているが、そこにこんなフレーズがある。「事故は尽きない。しかし限りなく零に近づけたい。」それから35年経った今でも、観測隊はその答えを模索している。彼が58年前に息子の行く末をどのように思い浮かべたとしても、その模索に参画することになることは予想だにしなかったことだろう。 写真は第一次南極地域観測隊の「宗谷」出港風景
2018/04/01
 1996年の2月に、スキーオリエンテーリングの世界選手権のためにノルウェーに行かなければならなかった。その年は日本も寒い冬で、すでに11月後半にはしもやけになっていた僕は、ノルウェーにいったらいったいどんなひどいことになるのか、想像さえできなかった。実際にはどうだったか?しもやけが治って帰ってきた。...
2018/03/23
 わが部屋には猫がいっぴきいた。オスの三毛猫である。劣性遺伝である三毛は通常メスにしか生まれない。オスの三毛猫は一種の染色体異常であり、生まれる確率は相当低い。だから、幸運の運び主だか航海の守り神にされているようで、第一次南極地域観測隊に、贈られたエピソードが残っている。この猫は観測隊隊長の永田武にちなんで「タケシ」と名づけられ、越冬後は一番懐いた通信隊員の作間敏夫さんに引き取られ、天寿を全うした。わが部屋の猫もこの故事に倣って壮行会の際に贈られたもので、当然名前はコーイチローという(隊長土井浩一郎)。  あまり可愛くない顔だと思っていたけど、単純接触効果からか、次第にその顔が可愛く思えてきた。何より癒される。ぬいぐるみ一匹いるだけで部屋の空気が和む。まだ隊員たちとの打ち解けた関係のできていなかった往路では、ヒヤリングルームに持ち込んで相手をリラックスさせるのにも使った。ぬいぐるみ侮り難し。  もし仮に自分が観測隊の隊長になるのなら、いろんな動物のぬいぐるみを隊員の数だけ買って、一人ひとりの隊員に好きなぬいぐるみを渡す。「ふーん、君は蛇のぬいぐるみがいいの。面白い趣味だね」とか、「そうだよ、やっぱり三毛猫だよ。タケシの逸話知っている?」とか、隊員との話題づくりにも活躍するだろう。もちろん、隊員が可愛がってくれれば、隊員の癒しと精神的健康にも大いに 貢献するはずだ。100匹買っても、せいぜい30万円くらいだろう。個人の幸福のもとに隊を成功させるなら、安い投資だ。  「最後に公室のゴミ箱に捨てられてたら心が痛みますね」と、小心者(本人談)の同室者が気にする。シドニーが近づくと、誰もが荷づくりで要らないものを片付けだす。バフィンブーツが捨ててあったりする。誰からもらったにせよ、3ヶ月も一緒に暮らしたらぬいぐるみでも愛着がわくものだ。そうなるはずのぬいぐるみが捨てられているということは、隊への満足度が低いことの証でもある。ゴミ箱に捨てられているぬいぐるみの数は、隊員の満足度を評価するアンケートよりもはるかによい指標になる。どのみち、アンケートの評価が悪ければ、心が痛むのだ。  わが部屋のコーイチローは、南極の思い出を背負って、日本に帰る。楽しい思い出ばかりではないが、それ自体に人文社会科学の研究者である僕が研究を続ける理由もある。コーイチローはその航海の守り神ともなるだろう。
2018/03/22
 シドニー入港の朝(20日)、6時に艦橋に上がる。東の空には夜が明ける兆しが見えるが、西の空はまだ真っ暗だった。船首が向いているその方向に灯台の灯りが見える。その回りには街の灯りらしきものも見える。4ヶ月間見ることのな かった風景だ。...
2018/03/21
 夢を見た。人懐っこい笑顔の男性がこちらに向かって歩いてくる。手を差し伸べている。防寒具に身を固めているから、きっと南極関係者の誰かなのだろう。でもこの顔は関わった58次隊、59次隊のどちらにもいない。頭の中の記憶を探る。そのとき、彼はいった。「望(ボー)ちゃん、久しぶり!よく来てくれたね。」その瞬間、吉田栄夫さんの文章中にあった写真の人物に思い至った。福島紳。南極観測隊唯一の犠牲者。1960年10月10日、ブリザードの中で作業のために外に出たときの悲劇だった。彼を偲ぶ「福島ケルン」が昭和基地の海岸、しらせからの輸送路の上陸地点に建てられている。  眼前の彼の姿はだんだん小さくなり、やがて、僕の足元に吸い寄せられていくように見えた。同時に、「そろそろ行きましょうか」という声が聞こえた。一緒に福島ケルンにお参りに来た隊員の声だった。どうやら福島ケルンでの黙祷中に白昼夢を見ていたようだ。この場所は、リスクについて考えるために南極に来た僕にとっては、一種の聖地である。    彼の遺体は9次隊のときに発見され、遭難時に一緒に居た吉田さんによって運ばれ、荼毘に付されて、遺骨の一部はケルンにも納められている。奇しくも、彼が遭難した4次隊のメンバーが多かったという。その中の一人に父望もいた。父が生きて僕の南極行きを見送ってくれたら、その送り言葉の中にはひょっとすると「福島さんによろしくな」というのがあったかもしれない。
2018/03/19
 フランスの世界選手権への挑戦で、初めて大きな挫折を味わった後に臨んだ1989年スウェーデンの世界選手権、余暇時間の使い方にも気を遣った。興奮しすぎず退屈しすぎない、適度な娯楽が精神面の調整には欠かせない。音楽のほかに選んだのが数冊の本。その中に大江健三郎の「キルプの軍団」があった。ノーベル賞作家大江の作品では障害のある長男を扱ったものは有名だが、キルプの軍団は、部活でオリエンテーリングをしている次男をモチーフにした高校生が主人公だ。  ストーリーはあらかた忘れたが、題名はディッケンズの小説に登場する悪役のキルプに因んでいる。主人公Oちゃんは自分を取り巻く悪意を乗り越えて世界との関係を新たにする。そんな主人公の姿が、世界との関係を新たに構築することで競技の世界で一歩先に進もうする自分に重なった。中学校のときに、「村越は感想文を書くのが苦手だな」と言われて以来、物語を読むことに苦手意識を持っていた自分にとって、それは新鮮な体験だった。  それから30年が経ち、世界選手権への挑戦と同じように、自分の目標のためだけに自由に裁量できる時間の中で、普段、なかなか読む時間のない、買い置きした新書の類を読んでみた。また、しらせ内のレンタルDVDで、映画もみた。それらの主題は、不思議なほどに現在の自分にシンクロした。 ①国谷裕子(2017)キャスターという仕事 岩波新書  国谷裕子はNHKの驚異の長寿ニュース番組、クローズアップ現代のメインキャスターであった。番組タイトルからも分かるように、番組の毎回のテーマは、現代を特徴づけ、その動向を理解するのに欠かせないテーマばかりだった。その最後に番組が選んだテーマが、管理の強化や同調圧力の中でも、声を上げ、未来を変えていこうと考えている若者たちだった。一方で、国谷は、管理の強化や生きにくさの根底にある社会の不寛容さにつながるコンプライアンス、リスク管理の強化を、クローズアップ現代が助長してきたのではないかという思いを忘れない。  本来チャレンジがリスクを生み出し、そのチャレンジが許容できないリスクをもたらす不幸を避けるためにリスクマネジメントがある。だが、未然にリスクを管理するリスクマネジメントはチャレンジ精神とは反対の方向を向きやすい。少なくとも組織でリスクマネジメントに従事しているとそう感じる。今のような社会では、組織的なリスクマネジメントは不可欠だろう。だから、個人的なリスクマネジメントの対案を提示しないと、個人に対しても、それが適切でないのに組織的なリスクマネジメントの論理が押し付けられ、本来許された挑戦の機会が損なわれてしまう。それは自然の中でのリスクマネジメントの実践知を研究テーマとしている自分の根底を流れる問題意識だが、同時に南極地域観測隊に関わるべき理由でもある。 ②亀田達也(2017)モラルの起源:実験社会科学からの問い 岩波書店  日本では学問分野は大雑把に自然科学、社会科学、人文科学に大別される。いわゆる理系である自然科学に対して社会科学や人文科学は「文系」と総称される。その「文系」に対して、2015年に廃止統合などの厳しい通達が文部科学大臣よりなされた。それに対して社会心理学を研究する筆者は、自然科学と同じ土俵にたって「文系」の知の意義を提起したいという目的意識から研究を進め、また この本を執筆した。  特に興味深かったのは、モラル、すなわち価値を分配する方法の心理的基盤とギャンブルの選択の関係だった。価値分配は、自分がどのような階層に位置づくか分からない状況ではギャンブルと同様、リスクの問題でもある。著者は実験に基づき、この両者に強い関係が見られると主張する。価値の分配とギャンブルを問わず、最低の分け前を最大化するロールズ主義的傾向が見られるというのだ。 最低を最大とは、所得の分配で言えば、最低保障をできるだけ高くするような所得分配を選好することであり、ギャンブルであれば最低の配当を可能な限り高くするオッズを選好することだ。  彼が提示するデータを見ると、僕は別の印象を抱く。社会的分配にはロールズ主義のマキシミン(最小限を最大限に)選択する被験者の40%程度がギャンブルの文脈(個人的なリスクの分配)には功利主義的な総額最大化を目指す点である。つまり、彼らは社会としては弱者への最低保障をできるだけ高く(これが、マキシミン)守る必要があると考えているが、個人の挑戦においては失敗しても全体の利益が最大化するやり方を許容していることになる。価値の配分は一種のリスク(配分方法が悪ければ分け前に預かれない)なので、集団全体としては最大リスクを最低にする規範が必要だと思っている人でも、個人の挑戦に限ればそうでなくてもよいと考えている人が少なくないことになる。  社会としては不幸を最小限にするリスクマネジメントが必要ではあっても、個人にとっては別のリスクマネジメントの選択肢も必要になるということでもある。そういう選択肢はかなりの程度許容されている。それを実装することは、個人の挑戦機会を許容することにつながり、国谷が指摘するような非寛容さに対しての緩衝材ともなるのではないだろうか。  現代の諸問題に対してマニュアル的な答えを出すのではなく、(社会科学の方法とテーマ設定で原理的なレベルでの解を与える可能性を探るという姿勢にも共感を持った。アウトドアでのリスクに対して、深い考えもなく投げかけられる「あぶないから/迷惑をかけるからだめ」でもなく「自己責任だから勝手にすれば」のいずれでもない、原理的な解があるとすれば、それこそがリスクマネジメントの研究を通して見つけ出したいものでもある。 ③天地明察(原作:沖方丁)(しらせレンタルDVD)  しらせの45日間の航海に終わりが見えなかった2月の半ば、艦内レンタルのDVDを何度か利用して映画を観た。普段映画を見ない僕は、映画を選ぶこと自体難しかったので、まずは原作を読んで面白いと思った映画を見ることにした。最初に選んだのが「天地明察」だった。  江戸時代の改暦という地味なテーマを扱った同名の歴史小説「天地明察」を映画化したものだ。碁打ちながら理系の才能に恵まれ、碁などを通して幕府や宮廷の要人に知己を持つ若き主人公安井算哲の改暦に至る奮闘を描く物語である。重要な転機でことごとく老齢の要人にその才能を愛でられ、改暦という国家プロジェクトを任されていく。  若いころなら安井算哲に自分を重ねただろうが、今なら老齢の要人にシンパシーを感じる。自分たちが退いた後に社会を支える人材を見出し、育てることへの義務感、彼らが作るであろう社会への希望。しらせには今、10人を越える若い優秀な研究者の卵が乗っている。彼らがいつかはこんな夢のあるプロジェクトを成し遂げるのだろうと思うと、退屈なしらせの旅もまた輝いたものに思えた。 ④「駆け込み女と駆け出し男」(原作:井上ひさし)(しらせレンタルDVD)  女性から離縁を持ち出せなかった江戸時代に、駆け込み寺という制度があった。この映画は駆け込み寺こと東慶寺に駆け込んだ女性と、その女性たちを本格的に寺に入るまであずかる宿屋の主人の甥っ子の戯作・医術修行中の男を主人公 とする井上ひさしの時代小説である。  鉄作りの女主人ごじょは、女放蕩の亭主に愛想を尽かし、駆け込みを決意する。駆け込み寺での薬草の採取を通してごじょと主人公は心を通わせるようになった。医術の修行のために長崎にいくつもりの主人公は、2年の年季明けにはあなたを長崎に連れていきたいとごじょに話すが、ごじょは満更でもない態度を取る。  2年の年季が明けて、晴れて離婚成立(夫側が離縁状を強制的に用意させられる)の席で、放蕩亭主は離縁状を渡した上で、真顔で「戻ってくれ。いや戻ってくれなくてもいい、一ヶ月でいいからうちで鉄を作ってくれ。俺はお前がいなくなってから精進した。だが、お前の作る鉄には適わない」と懇願する。亭主の放蕩中、手続きに専心してきたごじょには無視できない言葉だ。慌てた主人公、親にお菓子を暗にねだる子どもみたいに長崎までの道中の絵図をごじょに見せびらかす。そこで毅然としたごじょの一言「長崎へは行きません」いい台詞だ。  主人公、ショックを受けながらも、未練がましくごじょに迫ると、こう詰問される。「長崎に何をしにいらっしゃいますか?」しどろもどろに「医者の修 行」、「戯作の修行」と答えと、ごじょにこう言い放たれる。「医術も戯作も、あなたはすでに立派な一人前です。長崎なんかに行っているときではありません。今こそそれを江戸で使うべきときなのです。」そして、最後に「江戸にならお供させていただきます。」と三つ指をつく。  初参加の観測隊、しかも同行者の身分だしなあ・・・「ちょっと修行中」くらいのつもりでここに来ていた自分へガツンと来るごじょの言葉だった。
2018/03/12
 艦上で運動ができる場所は基本的には上部甲板と保養室という名のジムだが、氷海を離れて「不摂生を正す」自衛官が増えてきた。一方で、悪天候になると上部甲板は使用できなかったり、積雪・強風のため甲板の一部で利用が制限されるという事態が生じる。そのため、ジム利用者が急増する。もともと広くない上に有酸素系はランニングマシンが1台、自転車が2台あるに過ぎない。待っている人がいる場合には30分までしか許されていないので、長い時間のトレーニングも難しい。週1回は90分のトレーニングをするつもりだったが、どうするかな・・・。
2018/03/08
 自然の中では何があるか分からない、だからそれに備えよ!とよく言われる。この言葉は半分は合っているが半分は間違っている。山野に限れば山岳遭難統計から分かるのは、遭難原因(態様)は高々13に分類されており、その他は5%程度に過ぎない。しかも、上位6態様で85%くらいを占める。統計的には何が起こるかはちゃんと分かっているのだ。その一方で、ある遭難態様がいつどこで誰に起こるかは不確実だ。それは自然が十分管理されていない環境であることに由来する。突然横の斜面が崩れるかもしれない。また、変化の影響は想定外に拡大しやすい。都会なら突然の雪でも喫茶店に逃げ込めが済むかもしれないが、山では数時間の行動を余儀なくされる。変化に対応できなければ、生還はおぼつかない。  こんな環境だから、リスクマネジメントが必要だ。一般にはリスクマネジメントは、リスクを特定し、それを分析・評価し、評価に応じて対策を採る(対策は回避だけとは限らない、低減、保有などもある)プロセスを意味する。そして多くの場合、分析・評価は損害×確率で行われる。この考え方は自然の中でのリスクマネジメントにも適用できるが、十分ではない。なぜなら、自然の中でのリスクの多くは高損害×低確率である(たとえば落石は当たったら致命的だが、そうそう起こらない。遭難の1%としても年間30件。これは国民の延べ登山回数約4000万回に比べたら100万分の1程度である)。管理の程度の低い場所では高損害×低確率のリスクに対してできることは少ない(それをすれば自然が自然でなくなる)。保有(そのままにする)、あるいは共有(保険をかける)が一般的な対応方法だが、これでは個人にとって何もしないに等しい。経済的な損害であれば確率×損害でリスクを評価してもよい。なぜなら、失ったらまたのチャンスに投資できるからだ。だが、自然の中の自分の命であればそうはいかない。一方で、自然の中のリスクは状況(天候、自分の体調・・・)など多くの要因に規定されており、その情報を得ることができる(天気予報を聞く、自分の体調に敏感になる)。それによってリスクの変化に対して適切に対応できる可能性がある。  そのようなリスクマネジメントの方法は、自然の中に入るエキスパートなら誰もが身につけていることだろう。その一部は山の啓発書にも書かれているが、微妙な判断については、文書化されていない(興味ある方は拙著「山のリスクと向き合うために」(東京新聞)等をご参照ください。58次越冬隊長は(暇だったのかもしれないが)3回読み直したという)。このような知識を認知心理学の言葉で実践知と呼ぶ。エキスパートの頭や体に染み付いた実践知を明らかにすることは、自然の中で活動する人たちの安全に資するのではないだろうか。今回の研究で主たる対象としたのは、フィールド科学の学徒だが、彼らだけでなく、僕が普段関わっているアウトドアスポーツの活動者にも役立つものになる可能性がある。それが、今回の南極地域観測に同行した最大の理由である。   過酷な自然環境とそれに対するリスクマネジメントは南極に限らないが、南極地域観測は、この研究テーマに対して理想的な環境を提供してくれた。第一に、過酷な自然(活動)環境であること。これについては多くの説明の必要はないだろう。もちろん今回参加したのは、今年の日本の冬よりも暖かい南極の夏期間ではあった。だが、強風や変化の激しい天気、限られた輸送とサポート資源など、リスクを高める要因は多い。さらに南極地域観測が個人のリスク研究に適しているのは、ここでしか経験できない特異なリスクがあり(たとえばタイドクラック、ウィンドスクープなど、最初の集合時には未経験者の約半数が言葉さえ知らないと答える)、しかも初参加の隊員は、それについてたった1~2年という短期間で高い動機づけを持って学習する。しかも、内省力の高い人を多く含み、往復のしらせという相当期間の共同生活の中で、本来であれば超忙しい彼らに比較的容易に調査対象を依頼できる。南極は環境心理学にとって天然の実験室である、と言った研究者がいたが、リスク認知についてもこのことが言える。  帰路のしらせで概略の分析をした段階なので、成果の詳細は控えるが、特に野外活動の安全管理を行うフィールドアシスタント隊員からの聞き取りをベースに、リスクの兆候以前の防御的な対応と、オンサイト(現場)の情報を積極的に活用した対応の大きく二つの柱からなる実践知の構造把握ができた。しかも、これは対応するリスクの変動性、致死性や制御性に対応していた。もう一つのテーマとして、同じリスク源を見てもリスクの評価が異なること(これ自体は珍しいことではないが)、それが様々な経験と科学的バックグラウンドによって説明できる資料を得ることができた。多くの場合リスクは潜在的である。しかし、知識の有無によって潜在性は異なる。それを解明する手がかりが得られた。  研究成果は、過酷な自然環境下で活動する科学者、働き手、あるいはアウトドアスポーツの参加者に役立つだろう。だが、使い道はそれだけではない。自然災害が起これば、環境の管理の程度は低下し、リスクの変動性が高まる。あるいは倫理的行動的な問題から、本来安全が管理されているはずの都市環境でも突然リスクの変動性が高まることがある(簡単な例でいれば、信号無視の車がいれば、青信号の横断歩道のリスクは激変する)。過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知を学ぶことは、こうした事態に対しても対応しうるタフな市民形成にも役立つのではないだろうか。  24回の「年越し」でも触れたが、「国を強くする」というと、どうしてもきな臭さがただよう。だが、個人の自律と幸福の集積の結果として国が強靭になることは決して悪いことではないと思う。そうだ。これは二十歳のとき始めてスイスにオリエンテーリングで遠征して、スイスに対して漠然と感じたことだったのかもしれない。
2018/03/04
  砕氷艦しらせは、行きはフリマントルからの20日間、帰りは約50日かけてシドニーまで観測隊を送り届ける。フリマントルからシドニーは直接移動しても3-4日もあれば到達できるだろう。それなのに帰路の船旅が50日もあるのは、帰路には昭和基地から東の海岸に沿って海洋調査や露岩域の調査をするからだ。そもそも2月1日に昭和基地を去るのだと思っていたら、14日まで昭和基地付近でプカプカしていた(これも海洋観測だったり砕氷性能の試験だったりする)。そこからさらに海洋観測したり、アムンゼン湾で野外調査があったりするので、それほどゆっくり動いているわけではない。    いずれにしろ船旅は長い。そこで各種イベントが行われる。年末には餅つき大会が行われた。帰路には艦内娯楽大会や南極工芸展が行われる。それらの中でも、観測隊+自衛隊っぽいのが、「南極大学」である。行きは4日間8コマ、帰りは4日間9コマが開講された。主としてしらせの乗員のために開かれているものだが、もちろん観測隊員も聴講できる。南極に関する分野では日本を、いや世界をもリードする研究者たちから話を聞けるのだ。観測隊員にとっても、貴重な機会である。  帰路の南極大学は、2月28日から3月3日にかけて行われた。既に観測を終えた後なので、南極で何をしてきたか、そのバックグラウンドを含めて話が聞ける。初日はペンギンガール田邊優貴子さんだが、今回はペンギンの観測ではなく、南極の湖に広がる生態系の調査をしてきた。氷に覆われた大陸南極だが、夏には露岩が広がり、氷食によってできた地形には随所に湖が広がる。しかも、少しづつ氷河が後退することで、湖の成立年代が異なる。湖ができてからどのようなプロセスを経て生態系が確立までのプロセスが、同時に観察できる可能性があるのだ。特に彼らが注目しているのは、コケボウズと呼ばれる湖底の生態系である。今回、その観察に投入された水中無人探査機を作成した後藤さんも、技術者魂あふれる製作の苦労話を紹介してくれた。  二日目は、ドーム隊で約3ヶ月のドーム旅行と地底探索などを行った大野さん、設営の永木さん、鎌松さん、葛西さんが昭和基地の維持に関する話をしてくれた。この日は、さらに氷河チームでも行動をともにした伊藤さんが、マニアックな海氷のでき方の話をしてくれた。真水のように純粋な物質の温度による挙動は実験でも把握しやすいが、複雑な自然環境に取り囲まれた塩水が凍るメカニズムも2000年ごろまで全然分かっていなかったらしい。現在では過冷却された海水が氷になることが定説になっているが、それでも、なぜそれが海面下75mまで入り込むかなどのメカニズムはわかっていないらしい。実験室では予測できない現象があるところがフィールド科学の魅力なのだろう。  3日目は氷河チームの箕輪さんの発表だった。南極の氷は概ね降った分だけ海にでていく。この質量流出は氷山が主だと思われていたが、海洋に接する場所にある氷河の延長である棚氷の底面融解がほぼ半分の貢献度であることが最近分かってきた。その相互作用を解明するための基礎的データの収集が彼らの研究目的だ。現場で日々見てきた地道なデータ収集から、大局的な仕組みが描かれるところをリアルタイムで眺められた。この日は私も発表をさせてもらった。タイトルは「過酷な自然環境の中でのリスクマネジメントの実践知について」だが、内容については次回紹介する。  最終日は宙空の江尻さんの発表。宙空という言葉は宇宙と空の境界領域(およそ地上100km)を指す言葉だが、南極観測以外ではほとんど使われていない。だが、大気圏からのエネルギーの伝達と同時に、宇宙からのエネルギーと物質(流星)の相互作用が盛んで、上から下から大童状態なのだそうだ。地球環境に大きな影響を与えかねない大事な場所だが、普通のジェット機が高度10km、逆にISSやスペースシャトルが350kmくらいで、その中間である宙空圏にはなかなか行きにくい。従ってリモートセンシングが主ということになる。どうりで宙空は昭和基地にバンバンアンテナが建っているわけだ。ラストバッターはペンギンの國分さん。帰ると生後10ヶ月のお子さんが待っているという。そのお子さんが将来の研究者を目指してペンギンの捕獲練習をしている可愛い写真(ぬいぐるみです、もちろん)を見せてくれた。  どの発表を聞いても、フィールド科学の面白さと同時に、自然に関する基本的なこともけっこう分かってないのが印象的だった。それを解明することに南極観測、引いてはフィールド科学の意義があるんだね。最終日には講師全員に艦長名での記念の盾をいただいた。なんと講師名まで金属板に刻印されている。艦のあらゆる工作に対応する応急工作員から見れば、朝飯前のことなのだろう。

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