4月9日、しらせが59次越冬隊と60次夏隊を連れて帰国した。4/10は明治記念館で恒例の帰国報告会・歓迎会が開催された。数々の成果が得られたことが報告のハンドアウトに掲載されている。
山岳遭難を考える · 2019/04/03
国立登山研修所が、高校山岳部指導者テキスト「安全で楽しい登山を目指して」を発行した。このテキストは那須岳雪崩れ遭難を契機に、高校の山岳部の安全のために作成されたものだが、日本を代表する山岳・登山の実践家・研究者が書いた充実の内容だ。
2017年、59次隊への同行に向けて準備しているころ、大学の総務係長に「先生、正式に決まるのはいつでしょうか?」と聞かれて、「それが、10月なんです・・・」と答えて唖然とされたことがあった。
開始から60年以上たった今でも、南極は自然科学に多くの発見をもたらしている。そこは氷に覆われた、一般の人には近づくことすら難しい大陸である。だが、自然科学が発見を業績としている以上、そこには多くの未知のデータが科学者に発見されるのを待っている。しかも、地球上の他の場所にはほとんどない寒冷と雪氷という環境が、そこにしかないデータの蓄積を可能にしている。たとえば、59次隊から始まった100万年のアイスコアの掘削がそれだ。南極の氷は水が凍ったのではなく降った雪が圧雪されて氷になる。その過程で降った時の大気が雪の中に閉じ込められる。氷面を深く掘れば掘るほど古い大気が閉じ込められている。大陸の山頂部(といっても高原状の場所だが)をできるだけ深く掘れば、そこには太古の大気が眠っているのだ。約3000m掘って100万年間の大気を手にいれる。そのプロジェクトが進行中である。
シドニー帰国直前に、しらせを望むカフェで昼食を摂る。一面オレンジだった船体の下部がねずみ色になっているのが、氷海との格闘を物語る。
 私が大学に赴任した時、15歳ほど上の教授から、過分な期待の言葉を贈られた。父が第一次南極観測隊に参加したことを知っての発言だったが、なぜそのように言われるのか全く理解できなかった。父は確かに南極に何度も行っているが、仕事だから当然のことで、電力会社の職員が深い渓谷に何度もでかけたり、山岳ガイドが毎日のように山に登るのと一緒だとしか思っていなかったからだ。    2001年のNHK番組プロジェクトXを見て、自分より20歳くらい人たちのこうした反応の理由に合点がいった。第一次南極観測は国家プロジェクトというよりは朝日新聞が国民を巻き込んで生み出した国民的プロジェクトであり、彼らはこのプロジェクトになけなしのお小遣いを寄附した人々だったからだ。「南極観測はすごい!」彼らはおそらく小学生だからこその素直さで、それを頭にすり込んだのだろう。彼の言葉とプロジェクトXのおかげで、「南極観測は凄いことなのだ」ということが30にしてようやく理解できた。
 1996年の2月に、スキーオリエンテーリングの世界選手権のためにノルウェーに行かなければならなかった。その年は日本も寒い冬で、すでに11月後半にはしもやけになっていた僕は、ノルウェーにいったらいったいどんなひどいことになるのか、想像さえできなかった。実際にはどうだったか?しもやけが治って帰ってきた。...
 わが部屋には猫がいっぴきいた。オスの三毛猫である。劣性遺伝である三毛は通常メスにしか生まれない。オスの三毛猫は一種の染色体異常であり、生まれる確率は相当低い。だから、幸運の運び主だか航海の守り神にされているようで、第一次南極地域観測隊に、贈られたエピソードが残っている。この猫は観測隊隊長の永田武にちなんで「タケシ」と名づけられ、越冬後は一番懐いた通信隊員の作間敏夫さんに引き取られ、天寿を全うした。わが部屋の猫もこの故事に倣って壮行会の際に贈られたもので、当然名前はコーイチローという(隊長土井浩一郎)。
 シドニー入港の朝(20日)、6時に艦橋に上がる。東の空には夜が明ける兆しが見えるが、西の空はまだ真っ暗だった。船首が向いているその方向に灯台の灯りが見える。その回りには街の灯りらしきものも見える。4ヶ月間見ることのな かった風景だ。...
 夢を見た。人懐っこい笑顔の男性がこちらに向かって歩いてくる。手を差し伸べている。防寒具に身を固めているから、きっと南極関係者の誰かなのだろう。でもこの顔は関わった58次隊、59次隊のどちらにもいない。頭の中の記憶を探る。そのとき、彼はいった。「望(ボー)ちゃん、久しぶり!よく来てくれたね。」その瞬間、吉田栄夫さんの文章中にあった写真の人物に思い至った。福島紳。南極観測隊唯一の犠牲者。1960年10月10日、ブリザードの中で作業のために外に出たときの悲劇だった。彼を偲ぶ「福島ケルン」が昭和基地の海岸、しらせからの輸送路の上陸地点に建てられている。  眼前の彼の姿はだんだん小さくなり、やがて、僕の足元に吸い寄せられていくように見えた。同時に、「そろそろ行きましょうか」という声が聞こえた。一緒に福島ケルンにお参りに来た隊員の声だった。どうやら福島ケルンでの黙祷中に白昼夢を見ていたようだ。この場所は、リスクについて考えるために南極に来た僕にとっては、一種の聖地である。    彼の遺体は9次隊のときに発見され、遭難時に一緒に居た吉田さんによって運ばれ、荼毘に付されて、遺骨の一部はケルンにも納められている。奇しくも、彼が遭難した4次隊のメンバーが多かったという。その中の一人に父望もいた。父が生きて僕の南極行きを見送ってくれたら、その送り言葉の中にはひょっとすると「福島さんによろしくな」というのがあったかもしれない。

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