26. ファイブスター

右からホースを繰り出し、左でウィンチで穴に落としていく。中央の滑車で繰り出し距離を読んでいる。約300m掘りぬく。右の黒いホースは熱水が通っているので、その周囲はぽかぽかして睡魔を誘う。
右からホースを繰り出し、左でウィンチで穴に落としていく。中央の滑車で繰り出し距離を読んでいる。約300m掘りぬく。右の黒いホースは熱水が通っているので、その周囲はぽかぽかして睡魔を誘う。

 年末の悪天候やブリザードによるヘリ輸送のキャンセルで、野外で調査するチームの行動予定は、予測不可能なほどに変更になった。僕の研究は研究者たちの過酷な環境でのリスク認知なので、基本的にはどこかの野外調査チームに同行し、その様子を記録したりインタビューする。従って、野外調査チームの予定が変更になれば、こちらの調査対象も強制的に変更となる。

 次はいつ野外調査に同行できるだろう?そろそろ心配になってきたころに、木津隊長から「氷河チームの支援に入ってくれませんか?」という打診が来た。氷河チームの人手不足は気になっていた、他のチームに比べてリスクの高い作業をしていることは間違いない。断る選択肢はない。氷河の上でのキャンプ生活も願ってもない経験だ。

 

 キャンプに降り立つと、箕輪さんが「お帰りなさい」と迎えてくれた。その後、必要な物資が輸送され、一ヶ月以上にわたる調査にふさわしいベースキャンプができていた。食事テントはノースのドーム8で、支援の3人を入れた7人が机を囲んで椅子に座っても十分食事できる。長期キャンプなので、基本的にはチームメンバー一人にひとつづつテントが与えられている。シングルルームにゆとりのダイニング。未明(2時ごろ)から明るいのはたまに傷だが、お日様さえ照っていれば、暖房が効きすぎた部屋のようなテントの中で朝を迎える。一日の仕事を終えてドーム8の中のアウトドア用の椅子に寛ぐと、窓ごしに氷河が見える。スイスの氷河脇に建つリゾートホテルにバカンスに来ているみたい。

 

 一緒に支援に入ったFAの高村隊員は、普段は山岳ガイドをしており、山行時の食事づくりには定評がある。高村シェフが腕を振るったワイルドだが懐かしい味付けの料理をたっぷり食べて、夕食後は団欒の時間を楽しみ、時には科学やリスクの話で盛り上がる。こんな贅沢な時間ってあるだろうか?昭和基地にある二つの夏宿舎は、揶揄気味にレークサイドホテルとエアポートホテルと呼ばれる。これらがビジネスホテルなら、氷河掘削チームのキャンプは文句なくファイブスターだ。なにしろ熱水掘削なので、得られるお湯を使って熱いシャワーを浴びるチャンスも時折ある。シャワーがない日だって、清らかな(そして0度の)氷河上の流れで体をすっきりできる。

 

このチームの研究を一言で言えば、「氷河に穴を開けて、内部やその下の海水の様子を把握する」である。それで氷河のことは分かるだろうが、素人的には「どんな意義があるの?」と思ってしまう。それについては氷河掘削チームのチーフ杉山さんがしらせ大学で丁寧に講義してくれた。南極の氷は海水以外の真水のかなりの部分を占める。しかも、それが溶けると約60mほどの海水面の上昇がある。それほど重要な水圏の構成要素なのに、実は南極の氷と海水の相互作用はよく分かっていない。氷河やその下の海水を把握することは南極の氷と海水の相互作用を把握することにつながり、地球規模の気候に影響する海水の挙動を明らかにするという壮大な研究プロジェクトの一部なのだ。このプロジェクトは南極観測の重点サブテーマになっている(素人の理解なので、不正確な部分があったらごめんなさい)。

 

 だから穴を掘る。やることは直径40cm深さ300-400m程度の穴を掘るという単純作業だ。だが、データを得るためには様々なハードルがある。80度程度の熱水を細いパイプと鉄管を氷に沈めながら、穴を掘る。1分間に数十センチというスピードで6~8時間(実際には1本目に掘ったときには12時間くらいかかったらしい)。その間、なんと手動でウィンチを回しパイプを降ろしていく。暇な作業に見えるが、パイプが絡まないようにさばいたり、何かあったときにはすぐ対応できるよう緊張感が欠かせない。

 

 

天気がよいとピクニック気分だが、不慮のトラブルに備えてどこか緊張している。
天気がよいとピクニック気分だが、不慮のトラブルに備えてどこか緊張している。

 それでも穴掘りは楽な方だ。掘った後はそこに様々な測器を降ろしてデータを取る。しらせの艦内放送で何度も聞いて耳にこびりついてしまった「CTD(深度に伴う電気伝導度(塩分)、温度、水深)」計測。こいつは10mごとにケーブルを止めて計測したり、クリティカルな場所では1mごとにケーブルを止めて計測する。ケーブルの操作は手作業で、ケーブルを持ったメンバーが10mや1m動くことで行う。500mの深さにある海底の堆積物を最終する作業はさらに大変だ。重さが数kgもある槍のような装置をワイヤでつるして海底に突き刺し、堆積物を採取する。ワイヤが絡まないようにするため、人力で250m先まで直線的に氷河上を歩いてワイヤを引き上げ、そして降ろす。採水器は、所定の深さに測器をおろして上からメッセンジャーを投下してその深さの水を採取できる装置だ。メッセンジャーって一体どういうメカニズムになっているのかと聞いたら、単なるおもりなのだ。それが落ちてきてばね仕掛けで水が周囲から隔離される。いずれも先端の自然科学とは思えない超アナログ測定器だ。これらの装置を何度も降ろしては上げを繰り返す。ワイヤーをひっぱりながら歩くと、ボルガの舟歌が頭の中でこだまする。僕の支援のときにはなかった係留系はもっと重いらしい。

 

 一回のデータ収集に1時間近くかかることもある。それで得られるのはたった10gr程度のサンプルだったり、数個のデータ値だったりする。そもそもここにやってくるために多くのリソースと時間が費やされている。一方で、数個のデータや数サンプルがより大きな現象の中に位置づけられることで、大きな意味を与えられることがある。こうした地道なデータ収集の積み重ねがあればこそ、氷河が、そして南極が、そこから地球の理解が進む。そんな自然科学の切羽を間近で見ることができた。