競争が激化した現在の科学には、多くの倫理的問題がつきまとう。数年前の小保方問題で顕在化した論文の不正はその一つだが、人を対象とする研究では、もう一つ、協力者の人権やプライバシーの保護という問題がつきまとう。研究が直接生き死ににも影響しかねない医学的研究はもちろん、私たち心理学者の研究も、大学や極地研による倫理審査を経て実施される。極地研としても人文系の研究がほぼほぼ初めてなので、倫理委員会の審査書類や協力者への説明書は医学系の枠組みで作成される。協力者に説明する時も、「あの~、『副作用』って書いてありますけど、コンピュータプログラムによる危険予知やインタビューなので、副作用はないと思うんですけどね・・・」と言い訳したくなる。
これらの倫理審査の項目に、データの破棄がある。一般的に人を対象とした研究では、人から収集したデータは研究終了後5年で破棄することになっている。縦断的な研究であれば、最初から研究終了は数十年先ということになってしまうが、それでもデータの保持期間は有限であることに変わりはない。本人が自分についてのデータを誰かが永遠に持っていることに対する気持ち悪さへの配慮ということなのだろう。
一方で、研究者からすれば、得たデータは貴重な人類の知的遺産という感覚がある。観測隊で収集したデータとメタデータは基本的に極地研が保管し、また公開猶予期間を経たら公開される。国のプロジェクトとして取得された成果の散逸を防ぐとともに、広く一般にも公開すべきであるという趣旨がその背後にはある。特に南極の自然は、誰にでも開かれている。誰でも行けるわけではないが、そうであるからこそ、そこに公共の資金を使っていく者には、データ取得者としての権利とともに、データを公開すべきという義務も生まれるのだろう。
データの保管・公表と、研究対象となる人の尊重は時にコンフリクトをもたらす。どんなに匿名化されても、行動科学のデータには個人の識別性がつきまとうだろう。そのデータが公開されることが研究説明に含まれていたら、参加を拒否する人も現れるだろう。たとえ公開されないとしても、無期限に保存されるとしたら、やはり参加に躊躇する人も現れるだろう。
南極地域観測隊が取得するデータのほとんどは、自然科学的データだ。臨床系・医学系のデータも基本的には個人と連結不可能な匿名化が可能だ。一方、人文社会学系の行動科学的データは必ずしもそうではない。9月26日の第一回打ち合わせの時の「データの提出について」の説明を聞きながら、研究の切羽で出会うコンフリクトの面白さと解決の難しさを感じた。