46. 父、望のこと

 私が大学に赴任した時、15歳ほど上の教授から、過分な期待の言葉を贈られた。父が第一次南極観測隊に参加したことを知っての発言だったが、なぜそのように言われるのか全く理解できなかった。父は確かに南極に何度も行っているが、仕事だから当然のことで、電力会社の職員が深い渓谷に何度もでかけたり、山岳ガイドが毎日のように山に登るのと一緒だとしか思っていなかったからだ。

  

 2001年のNHK番組プロジェクトXを見て、自分より20歳くらい人たちのこうした反応の理由に合点がいった。第一次南極観測は国家プロジェクトというよりは朝日新聞が国民を巻き込んで生み出した国民的プロジェクトであり、彼らはこのプロジェクトになけなしのお小遣いを寄附した人々だったからだ。「南極観測はすごい!」彼らはおそらく小学生だからこその素直さで、それを頭にすり込んだのだろう。彼の言葉とプロジェクトXのおかげで、「南極観測は凄いことなのだ」ということが30にしてようやく理解できた。

  

 南極観測派遣が関係者の間で周知された時期がいつかはよく分からないが、父は比較的早い時期からそれに参加を希望していたようだ。満州で生まれ育ち、海軍兵学校に入学したものの、実戦に出る前に戦争は終わってしまった。理系の能力が高かった父だが、家庭の事情や社会的事情で大学には進学できず、給与を支給される気象大学校で学ぶことにした。卒業後は、昭和1954年まで富士山測候所、その後大島測候所で勤務していた。残された日記からは「くすぶり感」が行間から読み取れる。南極観測に参加することで、「一花咲かせたい」くらいの思いもあったのかもしれない。だが、当初は彼の思惑通りには事は運ばなかったようだ。

  

 大島では職場上司に対する不満が強かったが、富士山測候所の勤務は性にあっていたようだ。当時の測候所長の名前はよく話題に上った(余談だが、静岡に赴任して最初に県庁の委員会の依頼が来たとき、同じ委員にその所長さんの娘さんがいた。世間は狭い!)。南極観測への参加が決まった出発半年前の初夏には夕方思いついて、富士登山に行った。終電で河口湖まで行き、そのまま河口湖登山道を夜通し歩き、朝8時に山頂について、測候所員と半荘(麻雀)して帰ってきている。昭和30年の年末には、余暇に三島測候所を訪れている。その際、山頂で強力(ごうりき)の急病が発生した際には、自発的に申し出て、「零下20度余の極寒と風速30mに及ぶ暴風とをつき、結氷による登山路の危険を冒し登頂」(中央気象台長和達清夫による表彰状文面)している。満州生まれで寒さには強く、南極にもっとも条件の近い富士山頂での勤務は、彼が観測隊に選ばれた重要な要素だろうが、西堀さんが彼を選んだ最後の決め手は実はこの出来事だったのではないかと密かに思っている。

  

 福島隊員の遭難があった(第42回「夢」参照)4次隊の留守中に私が生まれ、その際「みんなみの氷と海の間からまだ見ぬ真の行く末思う」という短歌を残したと伝えられている(万葉集を卒論に選んだ妻のゴーストだったかも)。その後、9,10,12次には夏隊で参加している。またその過程で、気象庁を退職し、新設された極地研究所へと移っている。南極観測が華々しいキャリアになったかどうかは分からないが、少なくとも父には合っていたのだろう。

  

 第15次隊で隊長を務めた際には、自衛官が氷山のクレバスに転落し死亡する事故も発生している。この時には彼自身のミスであわや大惨事というヒヤリハットも経験している。極地研勤務の晩年の1984年に観測隊支援室長を経験した時には、現在に通じる事故事例集の発行を主導している。その序文は今でも事故事例集の「初版の序」として残されているが、そこにこんなフレーズがある。「事故は尽きない。しかし限りなく零に近づけたい。」それから35年経った今でも、観測隊はその答えを模索している。彼が58年前に息子の行く末をどのように思い浮かべたとしても、その模索に参画することになることは予想だにしなかったことだろう。

  

写真は第一次南極地域観測隊の「宗谷」出港風景